ほぼ足りてまだ欲 その先

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「思い出袋」

 岩波新書鶴見俊輔の「思い出袋」なるエッセー集がある。「図書」に連載されていたものをまとめて2010年に新書で出たものだけれど、私の手元にあるものは2018年の第12刷である。そこに同級生の永井道雄と都電の青山車庫の傍にあった、やはり同級生の一宮くんの家に学校の帰り道に良く寄り道したと書いてある。同級生というのは東京高師附属小学校、今でいう筑波大学附属小学校での同級生で学校は大塚にある。鶴見俊輔は母方の祖父である後藤新平屋敷の一画に暮らしていたんじゃなかったっけ?あまり記憶にない。青山車庫は今でいう国連大学の辺りだから、相当な遠距離通学だが、都電を「五回くらい乗り継いだ」と書いてある。小学生にとっては毎日楽しかったことだろう。しかし、鶴見俊輔は普通の子どもとはそうとうかけ離れていたはずだよなぁ。
 それから60年後に国連大学の顧問になった永井道雄からはがきが来て、随分変わったと書いてあったという。戦死してしまった一宮くんの家にどうしてあんなに足繁く下校時に寄り道したのかというと二年上の一宮くんのお姉さんが美人だったからだと鶴見俊輔がいうと、永井道雄くんも「僕もそうだ」と答えたそうだ。その一宮三郎くんのお姉さんの写真を見たいと思った。小学校の頃に「美人」だと思った小学生とはどんな人なんだろうかと。

 そういえば、私の小学校の時の同級生の女の子に、堀江美智子というそれはそれは美人の女の子がいた。今でも名前を覚えているくらい美人だった。目が大きくて、まつげが長くて、私とは大いにかけ離れているから余計にそう思ったんだろう。毎年、一学期の学級委員に選ばれていた。それはクラスで一番の人気だということだ。私はいつまで経っても一番短い三学期の学級委員だった。一度やった人は二度とか、連続とかでは選ばれないルールだった。一度だけその子の家に遊びに行ったことがある。向かいの丘の上の一軒家だった。お兄さんが二人いて、上のお兄さんは小学校でも飛び抜けて背が高く、随分大人に見えた。下のお兄さんはたしか早くに亡くなった記憶がある。
 その堀江さんと隣合わせの席に座っていたことがある。確か三年生だっただろう。宿題を忘れてきた子が多い日で、私も忘れ組だった。すると宮本先生が「忘れてきた子は床に正座!」と女性の先生にしては過激なことをいった。戦争が終わってから10年も経っていなかった時期で、占領が解除になってそこそこの頃だからまだ、そんなのは日常茶飯事的なバツだったんだろう。
 そして宮本先生は理不尽にも「やってきた人には画用紙をあげましょう」とアメとムチをいっぺんに見せたのである。ムカついた私は「画用紙なんて要らねぇや!」とつぶやいた。すると、あろうことか、その美人の誉れの高かった堀江美智子さんが手を上げて「せんせい!画用紙なんて要らねぇやっていってます!」と私の名前を出して告口をしたのである!宮本先生が私にどんな仕打ちをしたのか、全く覚えていないけれど、私は堀江さんのその仕打ちに心底衝撃を受けたのである。彼女は今どこでどうしているのか知らないが、今出逢えたら、この話を蒸し返したいと、忘れないようにこうして書いておくのである。どこでどうしているのでしょうか。