ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「認知症」と呼ぶそうである

 その家人は私の母の介護に行ってくれたのである。母は86歳。数年前から痴呆の傾向が出ていて姉が見ている。「痴呆」という言葉に抵抗がある、ということで今度からこの「認知症」を使おうということになったと新聞に出ている。この名前、呼び方を変えることがあると直ぐに「どんなに呼び方を変えたって実態は変わらない。欺瞞である。」という声が聞こえる。議論としては確かに仰る通りで、その行為だけでは何も変わらない。しかし、実際に直面している人にとっては結構ホッとしたりするものである。現実に「うちのおふくろ、すでに痴呆なんですけれど」と云うよりは「認知症なんですよね」という方が罪の意識(そんなものを持つ必要がそもそもないんだという声を投げられそうだけれど)がないことは事実である。いや、別におふくろがそうなったことについてわたしたちに罪があるとは思わないけれど、おふくろに最後まで楽しい日々を送ってもらいたいなぁと云う気持ちは確かにあるし、そんな意識を背負い込むことなく楽しくおふくろを見ていられたらなぁと思うのである。

意見募集では「痴呆」に対して一般用語や行政用語として使われる場合、不快感や軽蔑(けいべつ)した感じを伴うかどうかも尋ねた。その結果、「伴う」が56.2%、「感じない」が36.8%だった。(朝日新聞04/11/20 08:30)

 例えば精神分裂症と呼ばれていた人たちを統合失調症と呼ぶようになった時にも、実は私はホッとした。呼ばれるご本人がホッとしたかどうかという点では問題があるのかも知れないけれど、「私自身」はホッとしたのだ。いつもそう思う。一人でもそうされると私はいやなんですよ、と云う人がおられるのであれば、それを解決する方法を考えようとするべきなんじゃないかなぁと。それを「名前だけ変えたって」という発言をする場合、そのひとりの人を切り捨てた、ということになると思っている。
 たとえばかつて日本の植民地だった地域の人をあらわす侮蔑的な呼び名がある。今でもそれは別に「侮蔑的」ではなくて、かつては意味のある呼び名だったといってそれをそのまま使う人たちもいる。理論的にいえばそうなのかもしれないけれど、そう呼ばれる側に「そんな風に呼ばれたくない」という意識を持つ人がいればそうするべきではないと思う。それが民度なんだと思う。それが気配りなんだと思う。そしてそれが「人間」なんだと思う。そうした気配りができるように育った人は幸いである。それができない、あるいはしたくないと思うように育ってしまった人にはそれをいくら説明しても理解はできない。そこがもどかしい。