ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

ビートルズ・フルタイム・コレクション

 ニッポン放送篠田三郎の語りでもってビートルズの全曲放送をやっているんだけれど、その設定が私の場合と全く同じ、当時、つまり1966年に浪人しているという男の場合なんである。いやだなぁ、こいつは早稲田のあたりに下宿していて大家のお嬢さんが前田美波里よりも可愛い、なんていってやがって、悪かったなぁ、未だに前田美波里に憧れていて。でもって、篠田三郎の英語の発音が最悪なんだけれど、これってわざと?ふぉてぃーいやぁーずふろむざっびーとるずっ!っておまえさぁ・・・・。
 私は実家で暮らしていたから結構恵まれていたわけだ。だから多分親に隠れてやろうと思えばいくらでも要領良くできたと思う。にもかかわらずあの時親を出し抜いて切符を入手してやろうとか練り歯磨きをばんばん買ってやろうとか思わなかった。しかし、あの人はあれだけのアンチ巨人だったのになんで読売新聞なんて取っていたのだろうか。ビートルズが日本に来て記者会見があった。その時にうちの近所のもう今はなくなっておられる写真屋の遊び人といわれていたおじさんがうちにその記者会見の時の写真を数カット持ってきてくれた。私の記憶では彼がその記者会見に行ったという話だったと思っていたのだけれど、今から考えるとそれは余りにも唐突である。彼はどんなコネクションを持っていたというのだろうか。しかし、私の当時のアルバムを見ると、テレビに映ったビートルズの写真を貼ってある。見事なまでのビートルズのロゴを横に書いて。しかし、その(今で云えば生写真とでも云うのか?)記者会見の席でのビートルズのカラー写真はどこに行ったのかわからないのである。多分子ども(って程子どもじゃないけれども)心に、フェアな入手方法でない、と思っていたんじゃないかという気がする。
 高校一年の時に彼らのレコードを入手してうきうきしたいた頃、なんだかみんなの知らない世界を知ってしまった先駆けのような気持ちを持っていたのだけれど、あの頃からどんどんまわりが彼らを、そして私たちを普通の現象にしていくところで、そろそろ私はそんなミーでハーな関わり方から足を洗おうとしていたのかも知れない。
 翌年、大学にはいると私は親には内緒でドラムセットを買った。良くそんな金があったもんだけれども、実は当時は良くあった10ヶ月月賦で買ったのだ。ブリキをプレスしたようなシンバルがついた全部で5万円というGracyのセット。親と暮らしていたのだから家には持ってくることができない。そこで友人の家に置いてもらった。実はその友人は幼友達の同じ年齢。そして勿論家族の付き合いだから親同士も知っている。それなのに、そこに置いてもらうなんて、浅知恵も良いところだ。親父はずっと知らなかったけれど、おふくろは知っていたに違いない。多分そこのおばさんから情報は行っていたのだろう。そして翌年同学年の他の三人とビートルズ・バンドを組んだ。
 このビートルズコピーバンドはおおよそ1年半ほど続いたのかも知れない。年末にスキーツアーの一行に雇われてアンプからドラムからみんな積んでいったことがある。学校祭の時にはあっちのサークル、こっちのサークルと雇われていった。構内の移動は勿論リアカーだった。夏休みは一週間内房のある海水浴場で学生サークルが開くお店に雇われていった。一日に確か三・四回ほど演奏すれば良くて、海岸でごろごろしていたり。クリスマスが近づくといろいろな学校のいろいろなサークルのパーティーに雇われていった。そんな時は大体バンドが二つ雇われていて、交互に三回のステージを勤める。
 ある日、サイド・ギターを弾いていた男が辞めるという。その理由にはずっこけた。「人が一生懸命唄っている目の前でいちゃいちゃしている男女に我慢がならん」というのだ。あいつは柔道部出身だったからなぁ。今、多分彼は私たちの同期の中での出世頭だろうと思う。そこから私はビートルズから離れて、ブルースだったり、なんだかわからん風だったりしてそんな世界から遠ざかる。
 またスティックを持ったのはなんと26-7年あとになってからのことだ。