ほぼ足りてまだ欲 その先

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クリスマス

 来週の月曜日はクリスマスだ。10年ほど前からクリスマス当日の朝の礼拝に行くようになった。それまでは行きたくても週末に重ならない限りは行くことができなかった。むしろ慌ただしい師走の追い込みのワーキング・デイである。この国のクリスチャン人口はわずかに人口の1%にしか達しないので、キリスト教に縁のある祭日というのは全くない。もちろん神道にちなんだ祭日は名前が変わり、そのいわれもかわって表されているけれど、実はそのまま残っている。そしてそれをみんなが受け入れているのだから、やはりこの国は神道の国なんだと分かる。昔総理大臣が「日本は神の国」と発言して問題になったことがあるけれど、彼が云いたかったのは「神道の国」という意味だったはずだ。「神」といわれたってどの神のことか人それぞれによって様々だからその人ごとに自分の信じる神をそこで思い浮かべればいいわけでそんなのは問題にならないはずだもの。ところで仏教にいわれのある祭日というのもこれまた思い浮かばない。しかしこの国ではクリスマスそのものはもう向かう所敵なしの国民的行事になっている。大々的に騒がれていてあっちでもこっちでも「クリスマス・セール」があって、ジーザス・クライストの誕生日記念の大安売りをしたり、誕生日お祝い用特別メニューが披露されたりする。かたやお釈迦様はそれほど大事にされない。せいぜい花祭りくらいだ。お釈迦様誕生日記念・セールなんて聴いたことがない。お釈迦様がお悟りをひらかれた記念の日、成道会なんて私は大人になるまで知らなかった。それは私の実家が仏教についてほとんど縁のない生活を送っていたことにもよるのだろう。死んだ父も母もまったく宗教心という点では何もない人たちだった。
 それが父は晩年どうやら神道に目覚めたらしく、ある日実家に行ってみると神棚が吊られていた。犬を連れて散歩に行くといってでていくのだが、いつのことだったかもう想い出せないのだけれども、ちょっと心配だったから一緒に家を出た。するととことこと結構歩いていくのだけれども子どもの頃お祭りに行ったことのある神社に入っていった。ほぼ人のいない境内に入っていくと父は神殿に向かって頭を下げるといつまでも頭を垂れたまま直立していたのである。何をお祈りしていたのかそんなことは全く窺い知ることはできなかった。死ぬまで私は父に何も聞かなかったし、彼も私にそのことに関しては何もいわなかった。どうせ私は理解しないだろうと思っていた節もある。
 インターネットラジオで米国や豪州の放送を流していると今日なぞはもう徹頭徹尾クリスマス・ソングである。ジャズのプレイヤーもクラッシクスもカントリーもみんな軒並みクリスマス・ソングである。お寺さんを会場にしているカブ・スカウトの集会でサンタクロースが出てくる催しをやったことがあるけれど、さすがにあれには違和感があったなぁ。
 図書館のCD貸し出しコーナーに行ったらクリスマス・ソング特集棚ができている。かつて衝撃を受けた「ビーチ・ボーイズ」のクリスマス・アルバムがあったので借りる。するとその下の列に、天童よしみの「クリスマス・ソング」を見つけた。
 Dina Krallの「Love Scenes」とキングが出している「フラメンコの大家たちシリーズ」の一巻目ペペ・デ・ラ・マトローナのカンテを借りる。先日のフラメンコの会で唄っておられた瀧本正信の歌い方がこのCDと重なる。なんだか解説を読むとフラメンコの歌にはいろいろな地方や時代のやり方が様々にありそうで、簡単に理解できそうもないけれど、これからギターを抜いたら北米の先住民のうちのどこかの地方の歌に凄く似てくるような気がする。瀧本正信という歌い手は日本のフラメンコ界では相当の歌い手のようである。