ほぼ足りてまだ欲 その先

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シーボルト 紫陽花

 今朝方のNHKラジオ深夜便は大場先生がシーボルトと彼が欧州に持って帰った花木の話で、それがとても面白かったのだ。そういえば随分昔に吉村昭の「ふぉん・しーぼるとの娘」を文庫で読んだことを思いだしたのだけれど、あの文庫は一体どこにしまわれているのだろうか。(寝床の中で聞いた話を翌朝目覚めてから思い出し、思い出し書いたのだから多分に間違っているところがありそうで、話のお上手な大場先生には大変に申し訳ないことを記しておく。もし違っているところがあれば、それは大場先生の責ではなく、きちんとメモをとらなかった私に責任がある。尤も、蒲団の中ではさすがの私もメモをとることはないものなぁ。・・いや、昔は思いついたものを翌朝忘れてしまうからといってメモをおいて寝たことがあったなぁ、そういえば・・・。)

 欧州には花木の類が大変に少なかった。シーボルトが欧州に持って帰った多くの日本産花木(低木で花をつける)が欧州のみならず、そこから広まって今や世界的に普遍的に存在しているという。なにしろ彼が日本から持ち帰った花の中には紫陽花だけではなく、椿、サツキ、つつじ、ゆりをはじめ多数にのぼる。
紫陽花は学名Hydrangea otakusaといい、これはシーボルトが滞日中に、本人は結婚したと云っていたお滝の名前からとられたことはあまりにも有名だという。お滝は出島出入りの娼婦として伝えられているが、当時出島には娼婦であれば出入りが出来たのでそうした職業だということにしていたという説もあるらしい。
紫陽花は大場先生の話だと元々ガクアジサイが源となってそこからいわゆる紫陽花が作られたといわれているが、シーボルトが論文を書くにあたってその何年か前に中国から日本に持ち込まれたものでと記載しており、中国伝来の花木といわれるがそれが日本産のものが中国に伝来して、それが発展した形で日本に逆伝来したのかは明確でないという。
最近お花屋さんの店先にはいわゆる西洋紫陽花と呼ばれる様々なものが並んでいるが「ハイドランジア」というその名前は元々紫陽花類の学名に共通する「Hydrangea」(アジサイ類)のことであって、日本原産のガクアジサイを改良した品種だということで「西洋」とついているけれど実はそのルーツは日本だということである。シーボルトが名前を「おたくさ」としてお滝の名前からとって命名し、欧州に持っていったその紫陽花は大場先生の話によると既に日本では見ることが出来なくて、フランスの好事家が保っているのだそうで、先年浜名湖で開かれた花博の時にそれから増やしたものが日本に帰ってきたことがあるはずで、多分その流れがどこかに残されているのではないか、という。
シーボルトが持ち帰った花木の中には百合もある。当時欧州にあった百合の花は白い小さなもので、死者に捧げるものとされていたというから日本でいえば献花や仏花に使う菊の花か。それに比べると日本から持っていったいくつかの百合は花も大きく、カラフルで、もうそれだけで双手をあげて大歓迎をされたのだそうだ。中には球根がそれと同じ重さの銀と交換されていたものすらあるのだという。そもそも欧州のほとんど後には熱帯の花々を持ち込んでも温室のような特殊な環境を作らないと根付かないが、日本の花木、特に背の高い木々の下に生息する低花木の類に相当するものがまさに環境的にもぴったりだった。そういう意味ではシーボルトが日本から欧州に持ち込んだ花木類は欧州庭園に多くの影響を与えてきたということのようだ。
こちらもご参照頂きたい。
 豪州で暮らしていた頃、多くの近所の庭に椿(カメリア)やさつき、つつじ(アザリア)、そして大きな西洋紫陽花を発見することが出来た。不思議だと思っていたのだけれど、結局これらもシーボルトを初めとした人々が日本から持ち出したものが200年近くの時間を経てここまで広がり、普遍的になってきたものということである。おとなりのイーデスおばさんが一生懸命黒いネットを被せて色を濃く造り上げていたあの紫陽花も、元はといえば日本から欧州経由豪州到着の花だったと思うとやっぱり時間の流れというのは凄いものがあるのだ。