ほぼ足りてまだ欲 その先

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卑怯者

 「チューリップ如き」と思っているのだろうか。「やってやろうか、フフフ」と夜中の人がいない時に踏み込んでみんなが綺麗だねぇと楽しんでいる花をちぎって捨てたのだろうか。球根を採取する場合には花を全部咲かせてはいけないと花を摘花するんだと聞いたことがあるが、これはあくまでも密集して咲く花の美しさを楽しむところなんだから悪意のある行為に違いない。しかも、“これくらい、人間の命にかかわる訳じゃなし、かまやしねぇよ”とうそぶいている姿が実に想像できて腹立たしい。街中に書かれる変な意識を持った様な、ま、はっきり云ってしまえばサルマネの落書きも腹立たしい。これも人に見られないうちにやってやろうとする情けないほどのずるさに腹が立つ。そのスタンスが実に「卑怯」である。人間性がどんどん卑小化している様な気がする。
 光の殺人事件を巡るドキュメント番組であの犯人が実に幼い少年だったことを語る弁護者の話を聞いていて教育というものが本当に学校だけのものではないことも思ったが、大人がみんな忙しく働き、子どもを振り返る余裕がないことは世の中をとても儚く脆く、無意味なものにしてしまう状況を造り出すのだろうと思い当たる。
 そう考えると私の世代は自らはそんな状況にいなかったからそれほど気がつかず、自分たちはそんな社会を造り出してしまったのではなかったかと思う。「仕事」と「家族」の両方を比べた時に、常に「仕事」を優先することがごく当たり前のことだと思い、それを自分だけでなくて、周囲の仕事仲間にもそれを要求してこなかっただろうか。
 ホンの小さな一例だから、これが典型的なものだとはいわないが、こんなことがあった。外国で駐在員をしていたある日曜日の朝にその街に遊びにやってきた本社の役員から電話がかかってきた。あるところに遊びに行きたいがどこから行くのか、という。泊まっているところを聞いて、そこから乗り物の基点を教えて私は予定のために出かけた。次の日に上司にその話をすると彼は「なぜ、自分の予定を放り出して、アテンドしなかったのか」と私を叱責した。彼もやっぱりそうした病気にかかっていたのは明らかだ。遊びに来た、親しい人間でもない同じ会社の人間のために家族の予定を放り出すことは私には優先事項ではなかったが、彼にとってはそれが当たり前だった。彼は今でも生きていたらきっとそれが当たり前だと思っていることだろう。
 私がこの種の考え方に染まりきっていたことは疑いの余地はない。この時期は少しずつ疑問を持ちだした頃で、その前は勿論その様に考えてあたかも会社に暮らしていたのではないかという時期だってあった。これはもう誰の責任でもなんでもない。私たちの社会が一気にそのシステムの中に絡まって落ち込んでいた、ということなのだと云って良いかも知れない。