今日からまたJTB-USAの「アメリカ西海岸ヨセミテとセコイア、グランドサークルを巡る6日間」なるバスツアーに参加する。6日からの2泊3日のYellowstone + Grand Tetonのツアーの時は前日夜には担当者の女性からホテルに電話を貰っていたから確信があったけれど、今回は全泊のホテルも通知してあったけれど、別段なんのメッセージも入っていなかった。多分大丈夫だろうとは思っていたけれど、何となく不安。
宿泊していたPark 55 Hotelの丁度裏口にあたるEllis StreetとMason Streetの角の出口(ホテルの中ではこれは2階になる)から出れば、はす向かいが集合場所のHilton San Franciscoだけれども、Masonに面した出入り口は改装中なのか閉鎖されていて、二人して結構な斜度をこのホテルの正面玄関が面しているO'Farrell Streetまで引っ張り上げる。9時の集合時間には充分余裕を持ってロビーに入る。ここにもたくさんの観光客らしき人たちで溢れている。居場所が見あたらないが、取り敢えずホッとするが、一体全体これでどうやって誰が参加者か判別がつくのだろうかと思っていると流暢な日本語を操る白人の青年と、見るからに日本人と分かる青年が二人して近づいてきて、確認をする。どうやって判別したのか聴いてみれば良かった。「それでは参りましょう」の声で何人もの人たちが鞄をゴロゴロさせて正面から出る。その一群はそのまま私たちがえっちらおっちら上がってきたMason Streetを降りていく。するとそこには真っ黒な大型バスが駐車していた。おぉ、こんな大きなバスで行くのか、と驚く。中には白人の夫婦に別れを告げている明らかにこちらに暮らしていると覚しき日本人の女性もいる。
バスに収まってからの話で分かったのはこのツアーにはやはり現地で参加した人もいるし、日本からのパッケージで参加している人たちもいるということだった。しかも3泊目のLas Vegasでこのツアーは一区切りになっていてそこで離れる人もいるし、そこから参加する人もいるということで、取り敢えずそこまでは18人ということだ。56席を持つこの大型バスに18人だからゆったりと座れるのだけれど、乗り込んだ時に前から2列目が開いていたのでそこを占めてしまい、今日は一日充分に景色を堪能させていていただいた。
ガイドの青年は二人ともやはりモルモンの信者でふたりともミショナリーで日本に行っている。普通に日本語を話す日本人と思われた青年は実はミシガン生まれの日系二世なのだけれど長いこと日本で暮らしたそうで、普通の日本語である上に英語も普通だから典型的なバイリンガル。しかし、メインは愛嬌のある日本語を操り、カントリーの自分のCDすら作っているという青年である。
先日のYellowstoneツアーの時のモルモンの青年はガイドの始まりをアメリカの歴史からはじめたけれど、今度のガイド氏は世界の最後の恐竜、最も大きな生き物として米国の樹木を紹介するところから始まった。彼が云うにはBristle Cone Pineには5600-5700年というとてつもない樹齢を誇る木があるというのだ。しかも、National Park Serviceは実際にはもっと古い樹木を確認しているにもかかわらず、影響を及ぼす恐れからこれを公開していないんだという噂さえあるんだそうだ。世の中には人智の及ばない部分がまだあるのだろうか。そういえば豪州NSW州のBlue Mountainsにも相当な樹齢を持つ樹木があるのだけれど、当局はその存在を公開していないという話を聞いたことがある。
私たちがまず向かうのはYosemiteなのかと思えばそうではなくて、その南にあるSequoia and Kings Canyon National Parkである。San Franciscoから拡幅工事中のベイ・ブリッジをオークランド側に渡り、I-S5号線を南下してSanta Nellaの先で152号に入ってMadestoを通過。一路Fresnoを目指す。
最初の休憩はWesleyで、ガソリンスタンドの傍らにあるfruits standを冷やかす。カリフォルニアの果物は美味しそうなんだけれど、日本の果物の改良が過激で、これでもかという程甘い果物を日常的に食べている私にとっては味がプリミティブで、繊維も堅くて美味しくない。見た目は綺麗で思わず手を出しそうになるのだけれどねぇ。日本の農業技術は凄まじいものがあるんだなぁと感心する。かたや米国の野菜の美味しさはこれまた反対にびっくりするのだけれどねぇ。
Fresnoはかつての日本人移民の歴史を紐解くと頻出する名前である。今でもこの地域は一大農産物の生産地でこの後遊びに行ったSan Franciscoのチャイナタウンの何軒も並んでいる八百屋の店頭を見るとこの地域からやってきた野菜の箱で一杯だ。勿論今では多くの農民がメキシコ系に占められていると云われている。ここの新聞は「The Fresno Bee」という。確かどこか他の街でもこの「Bee」という新聞は発行されていたはずだ。ここは野球も盛んでUni. Of Stateの野球チームも強いし、San Francisco GiantsのAAAチーム、Fresno Grizzliesの本拠地でもある。(Uni. of State Fresnoの野球チームは今年のCollege Baseball World Seriesを制して全米一位に輝いた。)
沿線の農地はアーモンド、葡萄、プラムといった果樹園が延々と繋がる。ガイド氏が突然「あの朝顔の様な白い花はdaturaといってAmerican Nativesの人たちはドラッグとして使っていたものです」という。それが農地の片隅、牧草地の片隅に点々と割いている。今は大丈夫なんだろうか。そうかと思うとバスから見える範囲にまるで製紙に使う様なウッド・チップの山の様なものを発見。なんでこんなところにチップの山がと思ったら、なんとそれは積み上げられたアーモンドの殻だというのである。なにかに再利用されているのだろうか。あれを炭化して使うなんて考えられているらしい。
Fresnoのショッピング・センターでランチにする。酔い止めの薬と虫除けの薬を持っていた方が良いというのがガイド氏のアドヴァイスだった。山に差し掛かるとくねくね道になるという。コストコのような大きなスーパーで探すが、なかなか見つからず商品を陳列していた店員に教えて貰う。キャッシャーに並んでいるメキシコ系と覚しき人たちはほとんどがキャッシュで買い物をしている。パーソナル・チェックでもなければクレジット・カードでもなければバンク・カードでもない。つまりキャッシュしか持てない層の人たちだということになる。そこからどんな人たちが多いのかということを想像することはできるのだろうか。多くのメキシコ系の人たちがかつての中国人移民、日本人移民たちの様な役割を果たしているということだろうか。
昼飯はTutto'sでやはりbuffetだった。写真に失敗したけれど、とにかくサラダ。とにかく野菜。それでいてどうせふにゃふにゃなパスタになったけれど、実は私はふにゃふにゃヌードルが嫌いではないという怖ろしい感性の持ち主で、うどんだって煮込みたいくらい。出来れば素麺も温かいおつゆに入れて温麺で食べたいと云うくらいのものだから、米国パスタには十分対応可である。
1892年にYosemiteとSequoiaがNational ParkとなったがKings Canyonが公園化されたのは1941年で、KingsとSequoiaを同一管理になったのはなんと戦争中の1943年のことだという。セコイアの木は平均寿命が3,500年といわれ、一本が年間に実らす松ぼっくりは2000個、その松ぼっくりが生み出す種は年間に40万枚にものぼるという。それでもこのうち一枚が育てばセコイアの状況を保つことが出来るのだそうだ。全米には全体で38ヶ所のセコイアの森があるといわれているというが、これらのデーターはガイド氏の素晴らしいあんちょこの成果だ。
あんちょこついでに面白かったのはグリズリーが走るととんでもなく早いというのだけれど、なんと100mを6秒台で走るという。だから皆さん逃げられないですから遭遇しない様にしましょうね、という話だったのだけれども、これが笑い話で終わらないとはとても想像できなかった。
さて、かつてYosemiteに一度だけ行ったことがあるのだけれど、その時にとてつもなく大きな松ぼっくりを見てとても印象的だった。いやぁ、セコイアの松ぼっくりってのは大きいんだよと言い放っていた。ところが今回判明したのはあれはセコイアの松ぼっくりではなくて、なんとSugar Pineの松ぼっくりだったんだ。はっきり云ってショックだった。あれからヴィジター・センターであのでかい松ぼっくりを買おうと思っていたのだけれど、そんな余裕もなくなった。
人だかりがしているところがあって、何事ならんと見ると、これほどレンジャーとしてぴったりの人はいないだろうという佇まいをしたおじさんが柵に子どもを座らせて多くの入園者に話しているところだった。今この時点で本当に考えないとこの地球が崩壊に向かってしまう。しかし、その何かをやるのは誰かといえば、この私たち以外にいないんだという話だった。彼が話を終わると周りの人から、「そうだ、そうだ」という意味の拍手が自然に沸き起こった。忘れない様にしたい。
大きなセコイアの木を見てから、さぁ行きましょうと云ってみんなが歩き出したが、どこへ行くのかを全く把握しないまま調子に乗って浮かれたままついていった。そのうち気がついたら岩山にとりついていて、坂道大嫌いの私がゼイゼイ云いながら脇目もふらずよたよたしながら辿りついたそこは岩山の頂上で、周りはどぉ〜んと落ち込んでいる。遥か彼方に雪を抱いた山並みが見えている。西部大分水嶺なのだ。柵があるからそこにしがみついていれば大丈夫なんだけれど、そこにいた若者二人がそれぞれのデイト相手と見られる女性を残したまま、柵を越えていく。どこにいっても向こう見ずでバカなことをしたがる若者というのはいるものだ。ようやく息が整ってきてからあたりを見渡すと写真を撮りたくなる題材がそこら中にある。気がついたらこの岩の周りだけで54枚も写真を撮っている。岩に張り付いた黄色い苔なんかは本当に不思議と思う程の色を出している。遥かに見晴るかす山並みはカリフォルニアらしくなく、何となく霞んでいる。ガイド氏によれば南部カリフォルニアで発生しているwild fireの影響ではないかという。この岩山はアメリカン・ネイティブの名前をとって名付けられた「Moro Rock」といわれている独立した岩山だ。不思議なことにこの岩にとりついて登ろうと下から上がってくる人を見ると、皆さんとても気楽にやってきた雰囲気である。ビー・サンなんかでやってきて途中からこれはやばいとそれを脱いで裸足で歩いている人たちまでいる。そして地元の関係なのかスペイン語で話している人たちがとても目立つ。その割にあちらこちらの看板は全く英語だけで、日本の様に中国語やハングルで書いてあるなんてところは見たことがない。この岩山は御影石の独立岩でいうなればヨセミテのハーフ・ドームと同じである。
さて、Moro Rockから降りてきてから、ガイド氏の先導で舗装道から降りてtrailに踏み込み、いよいよnational parkらしい雰囲気が醸し出されてくるぞ、というところで、後ろからついていった私はtrailに入ってすぐに花を足下に見付けて撮影していた。すると、前の方で何やら女性の甲高い声が聞こえ、ガイド氏が慌てて逆戻りしてくる雰囲気がする。何事ならんと目を向けるとそこに見たのはブラック・ベアである。それも本当に近い距離で〔多分正確ではないだろうが〕30mほどだ。多分むこうは餌を探していて、こっちが見えていてもそれどころではなかったのではないだろうか。慌てて舗装道路に戻る。みんながどんどん戻ってくる。ガイド氏がなんだか急におぼつかなくなった日本語で「距離が近すぎます!皆さん、逃げてください。見てはいけません!」と怒鳴っている。逃げる逃げる!良く日本人はどんな時にも危機感がないといわれるけれど、なるほど、皆さん、にこにこしながら慌てる気配もない。若い女性に至ってはきゃぁきゃぁしている。私は足が震えそうだ。
ざわざわしながら倒木に穴を開けたトンネル・ログまでやってくると、また遥か彼方の森の中にブラック・ベアの親子が餌を探し続ける姿も見付ける。こんなに動物の影が濃いとは本当に思わなかった。そこに予期しなかったシャトルが通りかかり、ガイド氏が交渉してくれて、そこからシャトルバスに乗り込む。これに乗り込める予定ではなかったので、その時は私たちはトコトコ歩いてバスにまで帰り、長い時間がかかる予定だった。それは結構辛かったかも知れないが、また違うものが見つかったかも知れない。
私たちが泊まるのはWuksachi Villageという施設である。National Park Serviceが管理して民間に運営委託している施設はどこにいっても大体似た様な施設で、木造の茶色い建物。それもせいぜい二階建て。もちろんエレベーターなんてものは存在しないから二階の部屋に割り当てられた時はえっちらおっちら持ち上げなくてはならない。荷物を届けてくれる役割の人もおられるのだけれど、一度にみんな到着するんだし、散らばっているから運ぶのは大変で時間がかかる。我慢の出来ない私なんかは自分で持ち上げてしまう。それで背筋が疲れる。しかし、ここから先のnational parkの施設はちゃんとバスタブがついている。あのYellowstoneでもバスタブがあったらきっと暖まることが出来て良かっただろうに。
食事はなんだか選択肢がなさそうでそのままレストランに向かう。時間が時間で18人がいっぺんに席に着くことが出来そうもない。セカンド・シッティングでも良いかと聞かれたので、勿論構わないと入口のラウンジでビールを呑む。なかなか美味しいpal aleだった。見ているとパソコンを持ち込んでいる人もいるのでどうやら無線LANが繋がりそうだ。結論からいうとほとんどのnational parkの施設では無線LANが繋がる。もちろん分散している各部屋でまでは充分な電波が飛んではいないものの管理棟やキャフェテリア等なんかに行くと文句なしとまでは行かないけれどほとんど繋がる。今回のツアーのJTBの案内にはその辺が全く反映されていない。大都会ではほとんどどこにいっても繋がる様でもあるし、米国はすでにかなり無線LANもうが出来つつあるといっても良いだろう。
結局セカンド・シッティングでご一緒したのはケンタッキーから来られた駐在員のご夫妻、埼玉から来られた写真と山登りが趣味でなんにでも前向きなご夫妻、そして名古屋から来られた若いご夫妻、そしてうちの8人だった。旅慣れた人たちだったので話が面白い。私たちはチキンの半身のローストをシェアすると注文。他にサラダを頼んだのだけれど、これは結局供されなかった。ここもウェイターはヨセミテと同じように夏休みのアルバイトの様で、彼はいっぺんに8人のオーダーを取ったのだけれどそのメモがぐちゃぐちゃになってしまったらしく、後から後から、えーっとこれはなんだっけの雰囲気で聴きに来る。それでもしっかりと「シェア」は耳に残っていたらしく、なんと随分時間がかかってやってきた私たちの皿はきちんと添え物のワイルドライスとアスパラが添えられて半分に切られた真っ黒なチキンだったが、黒い皮を剥がすとそれなりに美味しいものだ。尤もきちんとシェアプレイと分が3.15ドルとついていた。
食事を終えて外に出るとほぼ満月に近い月が上がっていて満天の星でありながらもちょっと照明過剰であった。