ほぼ足りてまだ欲 その先

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国籍法

 通常、メルマガで読んでいるものだから、国籍法の改正案についてなぜか河野太郎のブログがむちゃくちゃになってしまっているのを見て、びっくりした。かつて東京入管所長だった坂中氏が「この国ではなかなか外国人を受け入れるという状況にはならないのでしょうねぇ」といっていたことを想い出すけれど、美味しいところは使っておいて、受け入れるところはいやだという分かり易い主張になってしまっているような気がする。最高裁の判決も間違うことだってあり得るのだとこれまでの論理の反対を主張している人もかなり目につく。

無国籍児童の解消

 無国籍なままの子どもができてしまうという状況の背景にある問題はいったい何かと考えると、それが浮き彫りになるのではないだろうか。抜け穴を通り抜けようとするポイントが予想されるのであれば、そこを埋めればよいのであって、そのための知恵を出す議論が必要なんだろう。官庁が自分の手で他国の同棲ビザのチェックのようなマメなことができそうもないというのであれば、日本人同士でも、日本人と外国人の組み合わせの場合も、全部DNA鑑定が必要だとして区別しなければよいのではないか。そんな人的資源も財政的資源もないというのならば、目標年数を定めて、やればいい。
 少数者を救うことによってこの国を変えてはいけないんだという主張は、そうした少数者を見捨てるという姿勢をとるということに他ならない。こうした主張が怖いのはどんな事態でも、状況でも、少数派は多数派によって黙らされてしまうことが当然になっていく、という事態だ。

二重国籍

 実はこの国籍法の改正については二重国籍を容認しようという目的もある。日本は国籍を血縁を元に決めているけれど、出生地主義をとっている国も他にはある。典型的な例では米国で出産して生まれた子供は米国籍を自動的に取得する。かつて日本からの移民に土地を取得させないという法を造ったカリフォルニア州では米国籍を持っていた子ども(二世)に土地を持たせることでこれを凌いだ。
 二重国籍で育った子どもは原則としては成人するときにどちらかの国籍を選ばなくてはならないというのが日本の法務省のスタンスである。絶対的に多数の人はひとつの国籍しか持っていないから殆ど関係がないが、外国で育った人がその国籍をひとつに絞れといわれると大変に悩む。本当にそっちの国を選んで将来的に自分は文化的にその国の人として生きていかれるのだろうか、という悩みは深く長い。
 外国にお嫁に行ったり、あるいは外国の女性と結婚してそちらに暮らし、そちらの国籍を取った人でも、いざ高齢になってひとりで暮らすことになったときに、畳の上で死にたいといっても、自分の国籍ではそうはいかない、という人たちもいる。それはその時点で選んで決断した本人の問題であって、そんなのは単なるわがままだ、という指摘をする人もいる。そうして指摘されるのはもちろん自由だけれど、実際の話、そうした話は枚挙にいとまがない。日本の国には特別帰化というシステムが存在する。そうしたシステムがどこまで機能するのかは知らない。外国に暮らしている人はそんなことも知らずに、ましてやとっかかりとなる国内の拠点も持ち得ず、諦めて暮らしている人もいる。
 そうした人にとっては国籍を二つ持っていられるというのは心確かな暮らしができるということになる。
 先日40年前に北欧の国に移住した女性と遭遇した。かつて豪州や米国にお嫁に行った人にもあったことがある。皆さん、こっちに来てそりゃいろいろあったけれど、これで良かったと思っていると異口同音に仰る。しかし、問題はこれからなんだろう。連れ合いと離れ、なかなか思うような状況でなくなったときに、どこで人生を終えたいか、といったら果たしてどうだろうか。容易に元に戻すことができる、でも良いのかも知れないなぁ。