ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

下諏訪へ

 目が覚めたのは6時半頃でそうっと鍵を開け閉めして、風呂に一直線。こういうところにいるときは何が何でも暇が出来たら風呂だ。
 指示されていた朝食のバフェ会場に行ってみると、そこはもう大きな、ちょっとした講堂くらいの広さがある「コンベンションルーム」と書かれたところだった。ロビーに並べられた大皿からおかずをとって中にはいるとご飯、味噌汁、コーヒー、紅茶、お茶なんてものが並べられていて、充分に堪能した。十穀米がいたく気に入る。おかずはどこのビジネスホテルでも見るような品揃えである。パンが意外にうまくて見直した。
 風呂場は朝の9時から11時までは掃除のために閉鎖だと聞いていたから朝食を終えてからもそれっとまた風呂に行く。こうなると風呂に朝飯を持って行った方が早いんじゃないかと思うくらいである。

下諏訪へ

 今日は「スワンバス(長野県岡谷市諏訪市諏訪郡下諏訪町で運行されているコミュニティバス諏訪バスジェイアールバス関東自治体より委託を受け運行)」に乗って下諏訪をめざす。それ程離れちゃいないという話である。足湯前から乗って八つ目が下諏訪駅である。
 大社通りを歩いていくとそっちの方から高校生らしき男の子たちがみんな同じ制服、スポーツバッグを持って降りてくる。道をふさいでいたから「おう、ごめんよ」と声を掛けると慌てて「済みません!」と、スペースを開けるところなんか今の若い奴にしちゃ随分良いじゃねぇかと思いながら上がっていく。
 到着してみると下社秋宮は結構な人手で、高校生たちの部活メンバーがやたらと勢揃いしてお参りをしているところに出会う。神楽殿でも本殿の方でも祈祷をしているたいこの音が響く。高校生たちが勢揃いして立派に二礼二拍手一礼をしているのを見て、さすがに諏訪大社の地元の高校生たちは違うなぁと感嘆の声を上げると連れ合いが、あそこに書いてあるのよ、とチャチャを入れる。
 なるほど。ここまで来たんだから当然の如く春宮にも回るのが当然のことだと、宝物殿の方へ回る。すると古い木造の店に随分お客が出たり入ったりする。何やらんと見ると、創業明治6年塩羊羹の「新鶴本店(→こちら)」と書いてある。私は塩で羊羹と聞くと清水の追分にある追分羊羹を想い出すのだけれど、あちらは蒸し羊羹で、こちらは口に含んだ瞬間に塩が口に広がる羊羹で、これがもっときめ細かかったら小布施の栗羊羹を思い出すなぁというくらいのものである。900円の経木にくるっと巻いて和紙の袋に入ったものを持って帰ってきたけれど、よく見ると「生ものですから早めにお召し上がりください」と書いてあって、これ一本を早めにお召し上がりになるのにはわが家ではなかなか難しい。
 中山道甲州街道の分岐がすぐ傍で桔梗屋という由緒のありそうな旅館はあるは、下諏訪本陣跡なんて立派な御門があったかと思うとその先に「綿の湯」と書いた建物があってその前には永六輔揮毫の「綿の湯跡」の碑ってのが立っている。今はお風呂はなくて、ここのお湯は周辺数軒の旅館に引かれているのだそうだ。その先、なんだか中途半端な雰囲気の建物に「遊泉ハウス児湯(こゆ)」と書かれた入り口がついている。出かけてくる前に連れ合いが図書館が廃棄本にした古いガイドブックをもらってきて研究したところによるとここのお湯が良いらしい。
 この先で道は和田峠から八島湿原を通って佐久や上田に行くという142号線となんだか狭い道とに分かれるんだけれど、鼻の効かない悲しさで私は太い方(といってもぎりぎり一車線)をとって坂をヨイショよいしょと上がっていく。きっと春先は桜で綺麗な道になるんだろうとは思うがなかなか辛い。後で地図を見るとこの道は「花見新道」と呼ばれているらしい。どんどん標高は上がって見通しが利いてくる。良いぞ、良いぞとは思うがなかなかそれらしい木立が見えない。おかしいなぁと思うところで、なんだか由緒のありそうな禅寺の前にさしかかる。
 そこに上がってきた壮年の男性がいたので連れ合いがお訊ねする。こんな時は女性がよい。するとなんと私の選択が大間違いで、あの細い道を行けば良かったのである。急遽修正していくと、木立の上の道だ。やや、と見下ろすと、春宮境内の上に出てしまっているのである。これはまずい。そこから崖を無理矢理下ってようやく私たちは鳥居をくぐらずに春宮に降り立った。これではまるでカラス天狗である。
 こうして降り立ったのにもかかわらず、春宮は平成の大修理に入っておって、なんと神楽殿から向こうは幕の中である。参拝する人は数えるほどで、その人たちも仮の場所に賽銭を入れて祈っておいでであった。
 裏の方に降りていくと道標が出ていて「万治の石仏」と書いてある。いったい何やらん。薄い鉄板のチェッカー・プレートを敷いた橋を二つ通り越して川を渡ると、畑と田んぼの真ん真ん中にまるでお茶碗に入れたご飯をさかさまにしたような石の上になにやらイースター島のアモイのような石の頭が乗っかっているのである。石工が鳥居用にこの石を加工しようとしたら傷口から出血した、だなんて不気味な話よのうと思ったけれど、この顔の日本人離れしたような雰囲気が面白い。しかも畑の真ん中だというのが何ともいえずおかしいしね。
 石仏に一礼して手を合わせ、周囲を時計回りに3周して再び石仏に向かい一礼し、「万(よろず)、治(おさ)まりました」とお祈りしてくださいと書いてあったので連れ合いがそれを実践した。果たしてご利益があるのかどうかわからないけれど、うちに帰って調べたらこれは2008年に下諏訪商工会議所が今年提案した方法(信濃毎日2008.12.25)だってんだから、如何なものかという気がしないでもない。
 橋に近いところに「芸術は爆発だ!」の岡本太郎が書いたという万治の石仏の石碑がある。この石碑の文字の彫りがとても変わっている。こんな彫りというのは昔からやり方としてあったのだろうか。石の中の方が広がって掘られているのだ。文字を石の中に立体的に掘ってその表面を薄く削ってみたかのごとき彫りだ(わかりにくい表現になってしまったなぁ)。この石碑は昭和49年に岡本太郎御柱を見に来て、この石仏に痛く感動したんだそうで、石碑の建立時期としてはそれより後ということになるわけだろう。
 帰りはちゃんと鳥居に向かうが社務所では手持ちぶさたそうな男性がひとりで破魔矢やお守りを前に立っている。こちらも銅の鳥居に寄進した各村毎に氏子の名前がぐるぐると刻んである。やおら春宮前に無理矢理車を駐め、プラスティック・バッグを持ってそそくさと走る女性がいる。なんとお昼のお弁当を配って歩いている方だった。
 鳥居をくぐって下っていくとなにやら太鼓橋のようなものが見える。あそこまで観に行ってもまた上がってくるんだから止めるかというと、そんな無精を決め込まずに観に行けばいいじゃないかというので、いってみると下馬橋としてある。どんな人でも馬から下りて歩いて渡れよと決められていたのだそうだ。こっちは鳥居の先に駐車場があるのだけれど、ガラガラだ。店なんてものも出てはいない。
 さて、私たちは帰りはきちんと街道を歩いて帰ることにする。あとで地図を見るとそのまま下までまっすぐ降りていくことが出来るのだけれど、私たちにも予定というものがあるのだ。中山道を歩いていくと、先ほどの禅寺の下の竜頭から湧く水があり、これを写真にしたり、街道筋の残された家屋を写真に撮ったりしているうちに「旦過の湯(たんかのゆ)」なる小屋がある。坂道の途中にあるので、車が来るとなかなか落ち着かないが、これもまた誰でも入れる公衆のお風呂で220円である。中をうかがうとそんなに広そうでもないけれど、賑やかそうな声が聞こえる。どうも地元の方のお邪魔をしそうだからと遠慮する。
 かねて狙いをつけている「遊泉ハウス児湯(こゆ)」にまわる。こちらも220円で自動販売機で切符を買い、係りのお姉さんにこれをお渡しして男湯に入ると脱衣所には脱衣の棚と有料ロッカーがある。ここには石鹸の類は全くなんにもない。見ていると皆さんバス用具篭を抱えてやってくる。こっちはタオル一本である。「入浴前には良くかけ湯、入浴中は半身浴、入浴後は水分を摂取」と書いた紙が貼ってある。どうして「半身浴」なんだろうと思ったけれど、入ってみて良くわかった。実に熱いのである。熱いなんてもんじゃない。こりゃ多分上野黒門町の燕湯もかくや、というほどである。半身浴しか、私には出来ない。一体全体何度ほどあるというのだろうか。出ていく人を見るとお腹あたりから下が真っ赤だ。私は最後に思いきって首まで浸かってみた。多分20秒ほど浸かっていただけだったと思う。ここにはなんと露天風呂があるが、ほんの三人も入ったらもう一杯だ。それにしても大した風呂だ。
 秋宮の門前まで帰ってくるとここで昼飯にしようと思っていた蕎麦屋「山猫亭」の前に出ていた紙に「大社通りの店では“合い盛”が限定であります」と書いてあったので、ならばと大社通り店に下る。ちょうど旦那と覚しき人が蕎麦を打っている最中であった。
 お訊ねしたら「これで14人前ほどです」というお答え。店の中は一杯で真ん中の大テーブルには見るからに初出の帰りにつるんで初詣に来て、昼飯代わりに蕎麦をたぐりながら昼から思いっきり呑んでいると覚しき中年から高年にかけてのサラリーマン・グループがおだをあげている最中だった。こっちは蕎麦造りが面白いから見ていたので飽きない。そのうちに席が空いて座り、「合い盛は?」と聞いたら今日はもう払底だというので、盛りと大根おろし蕎麦を注文。まずはおめでたいグループが重たい腰を上げると一気に静けさが戻ってくる。中のおひとりが「お騒がせを・・・」といったので、「とんでもない!」と返すのがこんな時のマナー。
 旦那が切っているのを見て、こりゃずいぶんと頑張って細い蕎麦を打っているのだなぁと思ったけれど、本当に細い。ちょっと私には細すぎる。蕎麦つゆがとてもあっさりしていてこれはこの蕎麦に合わせているのだろうけれど、これまた私のような野卑な奴には物足りない。そうかといってこっちの大根おろし蕎麦は揚げ玉、じゃこがつぶつぶの入ったおろしと一緒になっていて今時に受けそうではあるけれど、すっかり蕎麦を打ち消してしまいそうでなんだかもったいない。テーブルの上にあったメニューに「そばちち」なるものが書いてあって、試してみたいねぇとお伺いしてみるともう今日は終わってしまったそうで、今日は初詣客でずっとお忙しい様子である。

どうやって帰ろうか

 充分蕎麦屋で時間を費やして駅に向かって歩く。途中でそうだと思ってバスの時間、電車の時間を調べるとどちらも1時間以上時間がある。しょうがないねぇといいながら降りていく。
 来るときに気になっていた古い建物の横の通路の先に「菅野温泉」と書いた看板を見る。看板は確かに上がっているのだけれど、本当にこんなところで温泉があるんだろうか。東京に昔良くあった「温泉」という名前の銭湯じゃねぇのかと恐る恐るその通路の先に歩を進める。全くなんにもない。そしてそのガラス戸のところに来ると、ずいぶんと場違いな具合の立派な看板が掛かっている。そこには「菅埜温泉」と読める。
 ここは昔ながらの造りがそのままになっているようで、中をうかがうと番台のようなものが見える。なにしろこちらは既にひとっ風呂浴びていて昼飯を食ったばかりだ。しかし、後で家に帰ってから調べてみると、この風呂は結構な風呂のようで、皆さんが絶賛している。しかも、バスまで時間がたっぷりあったのだ。なんで入ってこなかったのか、後悔ばかりだ。
 駅までやってくると、やや、「スワンバス」が駐まっているじゃないか。帰る方とは逆方向だ。しかし、この「スワンバス」は諏訪湖の周りをぐるっと一周しているのである。あぁ、なるほど、そのまま乗ってしまって1時間以上かかる未踏部分を乗ってしまえばいいじゃないかと思いつく。
 バスは下諏訪駅前で20分ほど停車する。その間に春宮に近いところですれ違った青年がドライバーに聞いている。どうやって上諏訪に行けるかということだったようだ。すると運転手がこのバスに乗っても、次に来る逆方向バスを待っても、電車を待っても多分五十歩百歩だという。あぁ、じゃ、これに乗って良いんだと私は安堵の胸をなで下ろす。これがいけなかったか。岡谷の市役所に到着したあたりから先の記憶がほぼ全部ないのである。眠りこけていて気がついたときには「すわっこランド」という名前のスポーツ施設にやって来ていた。上諏訪の駅で降りて、駅周辺の様子をチェックすることにする。
 スワンバスは諏訪湖側のロータリーに到着する。反対側の方が国道に面している分昔から表側だったのだろうからこっちの方が余裕のあるレイアウトになっているからだろう。エレベーターで自由通路に上がって東側の国道側に渡る。そうそう、昔から長野県の主要駅といえばこういう雰囲気だ。なんだか昔の信越線の小諸駅上田駅を想い出させる駅だ。そういえば高山の駅にもちょっと似ているといっても良いか。
 駅の中に入っていったら、ちょうど上りの特急が入ってきた。なんだか「旅!」という気分がする。北の下諏訪方向に国道を歩く。どうやらこっちは昔の呑み屋街もあった地域らしくて、それらしい雰囲気のまま朽ち果てているのが散見される。三階建ての木造の家なんてどう考えても昔は宿だったに違いない。
 地下道があって温泉街の方に線路をくぐることが出来る。綺麗にペンキを塗り直したばかりの水色が寒々しくて何となく侘びしい温泉街の昼下がりである。今はすっかり痛んでしまった昔のストリップ小屋の跡のはす向かいに随分名の知れた川魚のお店がある。ワカサギの空揚げ(唐揚げにあらず)が有名らしいので入手。帰宅後ちょっと口にしたらこれは後を引いてしまってきりがない。店の片隅に水の音がするので何があるのかと思ったら鯉が泳いでいる。「えびす屋」さんという由緒正しいお店のようで、ちょっと検索するとガラガラとあたる。

北澤美術館本館

 今度は昨日見たSUWAガラスの里ではなくて北澤美術館の本館に向かう。昨日割引で買った入場券がここと共通だという話だったものだからこっちも見ようという計画だったわけで、すぐ傍の間欠泉までの時間稼ぎの意味もある。清里にある北澤美術館も同じ系列だそうだ。
 アール・ヌーヴォーのガラス器やらランプシェードやらというものは、自分の家には全く要らないけれど、人様に見せびらかすには面白いものがたくさんあってこうして見るのは良い。尤も日本の家屋にはテーブルスタンドなんて要らないし、こうしたガラス器は重たすぎる。それこそ片倉館のようないわゆる洋館を造ってそんな具合にお暮らしになればよろしい。
 北澤ってのはどんな人なんだろうと思っていたんだけれど、まさか美術館で「こんなものを集めている人って誰?」とぶしつけにも聞くわけにも行かず、とはいえ今や検索するとすぐにわかるわけで、北澤美術館のサイト(こちら)を見たら氷解である。
 あの北沢バルブの創業者、北澤利男だそうだ。(なんで会社の名前は北沢だったんだろう・・画数が多すぎるから?)尤も今はあの会社もたしかKITZとかいう会社名になっている。なんだかとってもやわらかい業種の名前のようでまさかバブルやさんというイメージの名前ではない。日本名では株式会社キッツというそうである。かつて製造業の現場にいたときにこの会社のバルブを随分使っていたことを想い出す。
 なんと私たちが滞在していたホテル紅屋も今ではこのグループである。道理でロビーにガラススタンドが置いてある。今は系列企業になっている東洋バルブは北澤の父親が経営していた会社で、そこから彼は独立し、今では東洋バルブのバルブ部門を傘下に入れているのだという。1997年に80歳で死去。
 あちらのガラスの里での展示もそうだけれど、ここでもフラッシュや三脚を使わなければ撮影可だというので、自分の好きなものだけを撮影してきたけれど、なかなか難しい。喫茶室を覗くと同行のおばあさん二人連れがお茶を前におしゃべりを愉しんでおられた。二階の絵画の展示も錚々たる作家の作品が並んでいる。相当なコレクションだ。

間欠泉

 今日の最後のイベントは「間欠泉」である。昨年は間欠泉を愉しんだからこれで極めつけかと思い16時半のスケジュールに合わせて行く。間欠泉センターというのがあるのだけれど、これが何とも不思議なのだ。センターの中はまるで干上がったプールみたいなところに溶岩が積み上げてあったりして、そこを通り過ぎて外に出るとやっぱり溶岩が組み合わせてある池のようなものがある。どうも、その辺から間欠泉が吹き上がるようだ。しかも、不思議なことに壁に「冬期期間は16時半が最終」としてある。自然の圧力によって吹き上げてくるのがちょうど1時間半毎なんだとしても、「最終」ってのはなんだよ。24時間、1時間半おきに吹き上がって当たり前じゃないのかと不思議。
 そうこうするうちに吹き上がった。そうそう、間欠泉、ガイザーってものはこんな感じだよ。ちょっと石の上に登ってのぞき込むと、吹き上げるところに10インチ程の径のパイプが見えるのである。な、なんだ?!うちに帰ってこれまた検索してみた。そもそもここの間欠泉は1983年に掘削したときには50mほども吹き上げるものだったのだそうだ。それがどんどん衰えてしまい、今ではコンプレッサーで圧縮空気を送り、上部の冷えた空気を取り除くことで噴出させているんだそうで、自然のまんまにしておいたら多分吹き上げないのだろう。→こちら
 当初の吹き上げ高さが50mあったんだとしたら世界で2番目というのは大げさだけれどもYellowstone National ParkのOld Faithful Geyserの最高吹き上げ高さと良い勝負だったかも知れない。世界で一番高いといわれているのはその吹き出しは全くの話、不定期だけれどもやはりYellowstone National ParkのSteamboat Geyserと呼ばれている間欠泉で、優に90mを超えるといわれているけれど、これまでに8回しか吹き上げていなくて、2005年5月23日を最後に吹き上げていないそうだ。
 それにしてもこの間欠泉センターは「すわっこランド」ができるまで温泉のプールだったのだそうだ。だから建物の中に池みたいな堀込みが残っているんだと納得。

お風呂

 ホテルに帰ったのは17時頃。直ちに展望風呂に直行。夕食に冷酒を戴いてしまって、夕食後はまたもや寝てしまう。夜中にもうひとっ風呂浴びて寝てしまう。