ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「アルバイトの思い出」

 学生時代(1967頃)に楽器が欲しくてカタログばかり貰ってきてはため息をついていたんだけれど、一念発起してドラムキットを買って友達の家において貰った。うちに持ってくると不良だといって殴られるからである。
 当時は分割払いで買おうとすると10ヶ月月賦で売るというシステムがあって、私が買ったのは緑屋だったような記憶だ。5万円のGracyのドラムキットだった。シンバルはもちろんプレスのゴワンゴワンだった。10ヶ月間、毎月5千何百円かを払わなくてはならない。
 当時一番高いアルバイトといえば、港に行って列に並んで雇われる荷役の仕事だ。素人は岸壁仕事か、岡周りの集配仕事。沖に行くのはベテランさんというか、本職の人たち。
 最初の日は南米に行く移民の人たちを乗せていく船に乗る人たちの荷物を積み込むという仕事。この船はとても古い船で、今でも覚えているんだけれど、なんと鋲で打ってあった。つまり溶接で造ってあるという船ではないのだ。肝心のなんという名前だったのかを覚えていないのだけれど、年上の人の話を聞くとどうやらこの航海で廃船になるんだという。さもありなん、こんなペンキで表面を保っているような船で良く南米まで行くもんだなぁとお気楽この上ないアルバイトだった。
 ところが仕事は全然気楽じゃなくて、この船に乗っていくんだという中国人の人たちが一番下のデッキのハンモックだったか蚕棚のような船室なんだけれど、それはそれは大量の昆布を持っていくのだ。これが大きな1mを超えるようなずた袋に入っている。それを私たちは岸壁で担いでタラップをえっちらおっちらあがり、そこからまたえっちらおっちら急な階段を一番下まで降ろす。それがいつまでも延々とやっても終わらないくらいの分量だ。ベテランの歳上のおじさんたちはなんということもなく、ひょいひょいと持って行く。悔しいながら勝てない。
 昼飯をどこでどのように喰ったのか全く覚えていないのだけれど、午後になったら係りのおじさんから「おい!こっち来い!」といわれていくと、トラックの助手席に乗って頼まれ荷物の収集にいってこいという。つまり、昆布運びの効率が悪いから他へ廻されたということだ。
 この時に大桟橋にもやってあった「あるぜんちな丸」(こっちも移民船だ)のロビーデッキまであがっていって荷物を届け、伝票を貰ってきた記憶がある。多分私が雇われていたのは代理店の下請けだったのだろう。あとはどこへ回ったのか、記憶にないけれど、車の助手席に乗ったままあっち行ったりこっちいったり。
 夕方になってようやく解放されて朝一番でいった小屋に行くと、その日一日働いた連中が列を作っていて、拇印を押してその日一日の日当、1200円也を受け取る。当時のアルバイト料金としては私がその後もやっていた池袋の洋品店の店員の2倍だった。当時、巷で噂されていたのは米軍の基地でベトナムで犠牲になった兵士の死体洗いというアルバイトがあるというもので、一晩一万円だといわれていた。しかし、実際にはそのアルバイトをやったという奴にお目にかかったことがなかった。
 そのあとはその一日600円の洋品店店員で地道に稼ぐことにした。あの店ももうあそこにはない。