ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

あれを書こう

 会社に入る時に、オヤジの先輩がその会社のお偉いさんだったから、その方に保証人になって戴いた。当時は会社へ入るのに「保証人」が必要だった、と云うことに今更だけれど驚く。その人はオヤジの高校、大学の一年先輩だったそうだ。ただ、中学が彼が一中で、オヤジが二中だったそうで、酔っ払うと、お前は二中じゃねぇか、いや、一中よりもこっちだといいあって遊んでいた関係だった。その一中、二中は今でも名称が変わって存続しているそうだ。そのオジサンの事務所にお伺いして判子をついて戴いた。その時に「良いか、三年は辛抱しろよ!」と言われたことは忘れていない。今から思うと、三年過ぎたら辞めても良いぞ、と云う意味だったのではないだろうけれど、何か、意味があったのだろうか。いかにも辛抱が足りなさそうに見えたんだろうか。

 そこのうちには私より三つ上のひとり息子がいて、大変に可愛がられていた。彼は日本の三大エンジニアリング会社に入って、活躍したらしい。その彼とは学生時代になんだかんだとひとしきり遊んだ記憶がある。彼の家は山中湖に別荘を持っていて、彼の車で遊びに行ったことを思い出した。それから全く音信が不通になってしまったある日、私はもう45歳くらいになった時、昼日中の私鉄の中で偶然見かけ、挨拶に行った。同僚と三人で乗っていて、どこか客先にプレゼンにいった帰りだといっていた。彼は横浜の鶴見から東京の世田谷に引っ越していた。
 そこからまた、しばらく連絡することもなく、10年ほど前に、某旅行代理店がアイルランド方面の旅の説明会を四谷のパブとおぼしき店で開催した。午後2時頃からで、アイリッシュ音楽を演奏するグループが来てそんな演奏もあった。そこに並べてあった椅子の私たちの前の列に、偶然彼が奥さんと二人で座っていた。あまりの偶然に驚いて声をかけ、初対面の奥さんにもご挨拶をし、説明会が終わったあとで、四人で早い夕飯を食いながらひとしきり話に花が咲いた。なんで横浜から引っ越したのかと聞いたら、なんと人生の中で一度で良いから東京に住みたかったというのには驚いた。なにも、関西や九州に暮らしていたわけではなくて、横浜のそれも鶴見なんだから、対して変わりゃしないのにと云って。
 あの保証人のオジサンに三年は辛抱しろといわれたからでもないが、上司に恵まれたこともあって、最初から5年間は辛いことはそりゃあったけれど、毎日が忙しくて、結婚もしたし、それなりに充実していた。しかし、好きな音楽もじっくり流行や次から次に出てくるミュージッシャンを追いかけることもしなかった。もちろん工場が地方にあったから、東京にいる時のように、環境が揃っていなかったということもある。
 ある日、工場から出ていってまだ一年経たない船が日本に戻ってきた。その船には自社の横浜工場で作ったエンジンが載っていた。このエンジンがまだ造り出してから日が経っていなかったからあちこち不具合がでる。そのうちのある部品を全て抜き取って、工場に送り返し、調整してまた載せる。その間に補充する部品を載せる。これをたったひとりで黙々とこなさなくてはならなかった時は、もう泣きそうだったのを思い出す。エンジン場から両脇にひとつずつを抱えて階段をえっちらおっちら上がり、タラップをくだって、部品箱に納める。夕暮れてようやく片をつけた。富山のどこかの会社の岸壁だったのだけれど、それがどこの会社だったのか、もう思い出せない。若いというのは体力があるんだなぁと感心する。別に運動部だったわけでもないけれど、20代はあんなことができたんだものなぁ。そのエンジンを売っていた部署に同期の男がいて、偉そうにするのを見る度に、あの時のことを思い出す。奴らはそんな苦労を知らない。

 あの船会社はもうどこかの会社に吸収されてしまった。私が当時働いていた会社も他の会社と合併してしまった。ひとつの会社が様々にその形態を変え続けるのは当然だけれど、かつてはそうではなかった。そういう概念を持っていたから、結構その変化は業界に暮らすものにとっては易しくない。外資系のフィルム会社に勤めていた呑み友達は全く違う業界に転職して苦労していた。軽工業をになっていた国が重工業を担うことになり、今度は電子系工業から、その発展系に変化していく。金融系に特化して生きてきた国や地域だってある。見てきた変化はこの先になんの役にも立たないけれど、「変化」には気づくことになった。