ほぼ足りてまだ欲 その先

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徴兵

 1911年(明治44年)生まれのうちの親父が書き残したものを読むと、どうやら彼は二回徴兵されている。一回目の徴兵は未教育補助兵としての訓練を半年にわたって受けたようだ。それからわずか半年後の二回目の徴兵では北支へ行き、かなり動いていたらしい。そういえば、私が40年ほど前にアフリカへ長期出張したときに貰った手紙には、「俺が行った北支の三年半に比べれば、まだ短いだろう」と書かれてあった。オヤジが内地へ帰ってきて除隊したのは1944年の6月だというからまだ太平洋戦争は始まっていない。
 配属されたのは岡山第110連隊だったというが、中隊長が陸士出身の野中次郎(オヤジは二郎と書いているけれど、これは次郎の間違い)少佐としてある。少佐で中隊長というのは頭でっかちだけれど、それは多分二・二六事件の野中四郎大尉の兄だったからだろうと書いている。同じ中隊に高等学校の同級生が少尉で任官している。1938年7月13日に天津近くの河港の塘沽に上陸した。
 とにかく下士官にはなるまい、と心に決めていたんだそうで(そんなことが許されるのか?)海軍短期現役技師の道も断り、工科学校への進学も断り、砲兵として任務に就いていたと書いてある。11月17日には初めての八路軍との戦闘に遭遇した。この戦闘でなくなった二名の兵の遺体を拠点に連れて帰って、通夜をしたそうで、連隊中に坊主の経験を持つものがいて彼が読経をしたという。上等兵になったら月給は十円。
 翌年というから1939年3月、面会が来ているという知らせに行ってみると、それは姉の亭主だったと書いてある。このおじさんのことは私も良く覚えている。岡山の児島で柔道着の生地を織る工場をやっていた。私がまだ小学校低学年の時に遊びに行ったことを覚えている。今だったらそれこそデニム生地でも織っていたのかも知れないが、多分オイルショックの頃に工場をたたんだような記憶で、オヤジが死んでからは全くつきあいがない。そこの子ども達、つまり私の従兄姉にあたるのが5人いた。
 5月になって伍長に進級するという噂が流れたので、同級生だった少尉にならないようにしてくれと頼んだらしい。するとその少尉は「彼は思想的に問題があるから進級させない方が良い」といってくれた由。そこからはもう上がらない。
 (読みながらだからなかなか進まない。ここでしばし、休止とす。)