ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

NHK クローズアップ現代

「“助けて”と言えない〜共鳴する30代〜」:30代のいわゆる氷河期に就職のタイミングにあった人たちの間でのホームレス、そして39歳で孤独死した男性について伝えた昨年の10月に放送した番組の反響、その後。
 見ていて「スティグマ」という言葉が今のこの世代に大きく被さる状況であることに驚くと同時になるほどと頷く。成果主義、競争原理、自己責任、という言葉が駆け巡る。身体が辛くなった50代後半から60代ならいざ知らず(だからといって肯定するわけではないけれど)、この年代でこの状況に陥るのは何がいけないからなのかと考えざるを得ない。
 「ネットカフェ難民」という言葉を発信した水島宏明の話を聞いたのは2年前だった。もちろんリーマンなんたらがむちゃくちゃなことをして金をかき集めている最中で、まだまだ破綻はしていない。しかし、当時すでに労働者派遣法が改悪されて日本の製造メーカーはどこもかしこも一斉に利益率の徹底追求に向かって突っ走り、この年代を中心に日本の働き盛りを丸裸にして利益の企業内留保に走っていた。
 自己責任ということばが大手を振って歩く大きなきっかけは私のイメージでは2004年のイラク人質事件じゃなかったかと思う。あの辺りから失敗したら石をぶつけるような雰囲気が平気になってきたような気がする。
 そうした社会の感じ方、価値観、「いっても良い」感といったものが「そんな選択をしたのは誰あろう、君だ」という風潮を生んできたんじゃないかと思う。
 私はその根源に小泉-竹中がいると思っている。「会社もいろいろ、人生いろいろ」とうそぶいて、自衛隊イラク派遣に際して「どこが戦闘地域だなんて私が知るわけないじゃないですか」と言い放ち、企業が儲からなかったら日本経済は成り立たず、それでは下々まで滴は垂れないのだと言い古された理論を振りかざして「我慢しろ、我慢しろ」とだまし続けてきた結果がこの状況だといえる。
 どう考えても30代の若者が何もやることがなくて公園のベンチをようやく脱出しても辛うじてネットカフェだ、なんて社会はおかしい。30代の青年に将来の希望が見えないなんて。
 作家の平野啓一郎が国の介在しない互助システムの構築の必要性を提案していた。NPO法ができてから数々の支援団体が法人化されることができて法整備は一歩進んだとはいえ、それによって団体の判別がつきにくくなってしまったこともあるし、彼等を支える税制がなんら近代化されていない欠陥が見られる。


 どこの親でも自分の子どもが可愛い。どこの親でも子どもが困っているのをそのままにはしておけない。「助けて欲しいんだけど」と口に出していって良いんだよ。いって欲しいんだよ。