ほぼ足りてまだ欲 その先

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ベトナム戦争

 昨日の夜はNHK BS-hiで、「HV特集 フロンティア「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実(原題:HEARTS AND MINDS)」という映画が放送された。この映画は1974年制作で、第47回アカデミー賞でドキュメンタリー長編賞を受賞した映画。1974年というとまだ正式にベトナム戦争終結していない。5代にわたるアメリカ大統領が果たした役割、闘い、障害を負うに至った兵士達、捕虜から帰還した兵士、カナダに兵役忌避で逃亡していた青年、戦闘現場、ベトナムの住民達。
 たった30数年前にしか過ぎない史実でありながら、今見るとあまりにも現在の姿との類似点に驚かざるを得ない。米国は、そして人類は何も学習していないのだなぁという感慨に浸る結果となる。そして驚くべきことは、あれほどマスコミ、あるいは多くの人たちによって監視され続けた戦争もなかったということでもある。第二次世界大戦朝鮮戦争が記録媒体の未熟さから残されている映像に限りがあるのは致し方がないというのはわかるけれど、あのベトナム戦争から較べたら遙かにその記録媒体の技術が発達している現在の方が、残されている、人びとに報じられている記録が遙かに少ないのではないかという点が気になる。
 今現在アフガニスタンイラクで米軍及び米国に従属する各国の軍隊が一体何をしてきたのか、どの様な日常的戦闘をこなしてきたのかという点についていえば、圧倒的に公開情報が少ないような気がする。
 私が高校生当時、夕食時に父親が家にいて家族全員で食卓を囲むと、必ずおかしなことになったのは、ベトナム戦争に関するNHKのテレビニュースが原因だったという記憶がある。父親は性格的に自分が本音で思っていることではなくて、子どもたちの耳目を集めようとする言葉を発するという傾向にあったからだと今だからこそ理解することができるのだけれど、戦闘を肯定するようなことをいう。すると私はこんな価値観を持つ父親とは食事を一緒にしたくないと怒りの余り席を蹴って立つという行動を起こし、母親がうろうろするという夜を過ごしたものだった。つまり、それほど日常的にベトナムから入ってくる映像がニュースとしてどんどん過程に送り込まれてきていたような印象がある。イラクアフガニスタンには日本から軍が派遣されていたにもかかわらず、彼等がどんな活動をし、どんな犠牲を引き起こし、どんな自軍の被害が起き、現地の住民にどの様な被害を及ぼしてきたかについてはつまびらかになっていない。
 映画の中では「ネイパム」と発音されているナパーム弾によって表面の皮膚がはがれて垂れている幼い全裸の少女(おそらく着ていた洋服に火がついてはがしたのだろう)が映り、そのあとからやはり火傷した幼児を抱えた老婆がやってくる。その画面を見て、原爆直後の人たちが説明する「皮膚がただれたまま歩いている人たち」という表現の意味を私はようやく理解することができた。何度も何度も、原爆被害の様子を語る、あるいは書いた人たちの言葉に接しながら、それが実際にどの様な状況を意味するのか、把握できていなかったことに驚く。
 ベトナム戦争で私たちは何も学習することができなかったのだろうか。朝鮮戦争で私たちは何も学ばなかったのだろうか。いやいや、アジア太平洋戦争で、私たちがあれだけの混乱と犠牲を引き起こした結果として、この手に入れたのは一体なんだったのか。「もう戦争はこりごりだ」という言葉には「自分の周りでは」という大前提がつく言葉でしかないということなのか。
 感情的な発言だけで終わってはならないと思うけれど、取り敢えずこれだけは発しておかなくてはならない。
 アフガニスタンイラクへの侵攻について米国はベトナム侵攻の教訓を考えなかったのだろうか。米国がベトナムで行ってきたことを何も考えなかったのか。そんな筈はない。しかし、これだけは確かだ。戦争を行うことによってボロ儲けする人間がいることは全く間違いがない。兵器産業ももちろんそうだけれど、その復興事業でも、兵站行為においても、輸送行為においても儲ける人たちが確実にいて、そういう方向に国を持っていくことによって、彼等から支援を受けることのできる政治家がいることも確かである。それを知っていながらそうした人間から鞭と飴によって彼等のいいなりになるマスコミを含めると世の中のいわゆる「力」を掌中に収めている連中が、わずかな金を得て暮らしを立てる人たちを楯にして一財産を作る。だから、いつまで経ってもこれは繰り返しでしかない連鎖の中にいるということだ。
 私はこうした絡繰りの中にいるから、思いもよらぬほどの金を持っている人間を信用することができない。まともなことをしていたらこの世の中で驚くほどの資産を持つことはできない。彼等は必ずどこかで濡れ手に粟をどっさりと取り上げている。
 マスコミについていえば、アジア太平洋戦争中に日本の国民を鼓舞し、その気にさせ、天皇家を神格化し、神の子としての存在の尊さを創り上げて<臣民>として盲目にし、命を差し出させて無駄死にさせてしまった、そのお先棒を担ぎ、某宗教+政治団体の機関紙と同じ役割に終始してきた。あの戦争が終わったときに、あたかもそれを自己批判し、反省したかの如くに見せたものの、実際には当時と全く変わらぬ態度のままでいることを私は暫し、忘れていた。彼等は社会の公器なぞとうそぶいていたものの、実際にはこの国を自らの金儲けの手段として利用できるシステムにしてきた霞ヶ関の広報機関紙として機能しているに過ぎなかった。
 私たちは騙されてはならない。