ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

11年前の春

 1999年の春はとても晴れやかで、とてもすっきりした春だった。
 私は前年末に会社を辞していた。30年近く勤めた会社だった。数え切れないほどの部署を巡った。つまりそれだけ、あっちでもこっちでも使えない会社員だった。卓越した技能を持っているわけでもないし、周囲の尊敬の目を集めるような人徳者でもないし、あれをやらせたら大丈夫というような分野を持っているわけでもない。何となくいる奴だった。任せるとなんの心配も要らない仕上がりを提示できる奴でもなかった。クリエイティブに何かを持ち込む奴でもない。何となくそこにいた。だから、誰かを減らそうとした時に上司が逡巡する対象ではない。
 最後に行った職場は本当に旧態依然としていたというよりも、その当時の社内の雰囲気としても思いっきり後ろに飛び下がったとでもいえそうな職場だった。
 なにしろこの何年間も一度も有休を取ったことがないという男が評価されるという職場なんである。その代わりにこの男は面白い性癖を持っていた。フレックス・タイム(あぁ、懐かしいなぁ)でもない職場にもかかわらず、彼は朝の出社時間がばらばらなのである。しかもその遅れの理由がユニークというか、良くそれだけ毎朝面白いことが起きるなぁという事件の連続なんである。
 バス停でバスを待っていたら、通り過ぎたカラスに糞を引っかけられて着替えようと家に引き返したら家人はもういなくて、代わりのスーツを出したらしわだらけだったから、アイロンまでかけて・・・。
 バスを待っていたら雨上がりでできていた水たまりを通りすがりの車がはねて、それでもそのまま出社しようとしたら、挙げ句に駅の階段で滑ってかぎ裂けができてしまってしょうがないからとうとう諦めて家に戻った・・・・。
 そりゃ嘘だろ!とは誰もいえないくらいに自然な話で、それが三ヶ月に一回だったら誰もが、そりゃしょうがないというだろうけれど、これが週のうちに必ずあったら誰だって、「あぁ、またか」と思う。上手いなぁとほとほと感心した。しかし、彼は有給休暇というものを取ったことがないのだという。
 かたや私はろくな仕事はこなさないのにもかかわらず(アハハ!実にお恥ずかしい)、取るものだけはしっかり取るという最初にリストラの対象になりそうな奴だった。確か50歳になったらもらえるリフレッシュ休暇ってものもしっかりもらった。上司は明白に反対だと云ったにもかかわらず。これじゃ、ぶつかってもしょうがない。反対する上司ってのもどうかと思う。中央政府が制定した制度を現場の担当者がそんなものはやらないというわけで、これもまたむちゃくちゃだ。むちゃくちゃだけれども現場の最大の権力者が彼なんだから抵抗するには彼を無視するしかない。ま、その時点ではすでに退社を決意していたから別にどうでも良かった。
 そんなごたごたを超えて、あっさりすっきりしたあとの1999年の春は桜も終わって次の自分のプロジェクトに突き進んでいったという点で実に思い出深い。それから先は前向きの人たちに次から次に出会うことができて、その人たちがいつまでも私に刺激を与え続けてくれて、まるでそれまでの生活が嘘のようだ。
 私はあの生活を続けていたら確実に精神的に参ってしまっただろう。しかし、そこから飛び出すことができたのは、ただ単に私がラッキーだったからに相違ない。あのまま「こんなことじゃいけない、自分に根性がないのがいけないんだ」と思い続けていたらどうなっていただろうか。多分父親が健在だったらそういう選択肢を取ることができなかったかもしれない。そういう点では本当にラッキーだったと云うしかない(おやじがすでにいなかったことをラッキーってのもどうも・・・)。
 実を言うと私と同期で同じ大学からあの会社に入社したひとりは40代後半になって関係会社に出向に出されてからその行った先で不審な死を遂げている。ご家族は認められなかったけれど、多分自殺だろう。地方から出てきたとても真面目な男だった。真面目だったから職場に良くあるおふざけ会話なんかに入っていけるタイプではなかった。しかも単身赴任だったから多分にそんな悩みを解消できる状況にいなかったのだろうと思う。
 私はそんな状況を多分適当にあしらっていけるタイプだと自分でも思っていたから、それができなかった彼を可哀相なことをしたなぁと思っていたけれど、自分がひとりでそんな立場に立つとは思ってもいなかった。
 だから、友達のひとりが「上司かお前かどっちかが去るしか方法はないな」といった言葉が私を救ったと思う。彼が真剣に考えた末に出してくれた意見だったのか、どうかは分からないけれど。それができたという点で私はくれぐれもラッキーだった。
 多くの人はそこで退却できない、してはならない、それでは男が廃ると考えることになるのではないだろうか。そんなことをしたら家族に迷惑をかけるという点でも逡巡することになるんだろう。
 ま、一般的にいったら私は「負け組」なんだろうけれど、そっちの「負け」で良かった。こっちで負けちゃうんじゃたまらないけれど。あ、経済的にいったら確実に負け組だろうなぁ。