ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

オリジン

 弁当の話ではなくて、車。twitter駒込のある方が2000年にトヨタが約1000台限定で生産したという「オリジン」という車のことを書かれていた。
 私は全く記憶にないというか、関心がないから新聞等も見過ごしていたんだろう。しかし、その写真を見て、そのフロント・グリルが往年のトヨペットクラウンを思わせるデザイン。挙げ句に扉は観音開きなんだという。今や観音開きになっている車なんて思いもよらないけれど、確か他メーカーの車にもそんなのがあったんじゃなかっただろうか。観音開きじゃ後ろの扉が走行中に開いちゃったら危ないものなぁと子ども心に思ったものだけれど、そんなのそうでなくたって危ない。あれは助手席(このいい方も考えてみれば凄いなぁ)から素早く降りて開けやすいということなんのだろうか。
 それで「ロンドン-東京5万キロ」という本を子どもの頃に読んで感動したのを想い出した。多分私が外国に思いを馳せるようになったきっかけのひとつがあの本だったのではないだろうかと思う。
 トヨペット・クラウンを海路ロンドンに運び、陸路を7ヶ月掛けて東京まで走ってきた(もちろん海上は走れないのだけれど)。当時は国内だってそうだけれど、アジアの各地の道路はもちろん整備されていないだけじゃなくて、がたがただっただろう。その上あの戦争からまだ10年ちょっとしかたっていない。ベトナムから山口までは船で運ばれたそうだ。
 あの本に書かれていたエピソードで唯一覚えているのは、英国で船から陸揚げした時にVWビートルより一回り程度大きかった程度のトヨペット・クラウンを見て、価格を聞いた英国人が「日本では車は重量で売っているのか」と馬鹿にしていったんだそうだ。あまりの日本での値段の高さに驚いたということだろうけれど、当時の為替によるおかげもありそうだ。それにしても当時の日本の車のレベルは、多分今とは比べものにならない国際的競争力だっただろうということは容易に想像がつく。
 当時の日本の車の登録台数がどれほどのものだったか知らないけれど(調べれば分かることだけれど、そこをサボる)、わが家の近所では非常に限られた数の車しか存在せず、お医者さんのホンダさんのところに黒いVWビートルがあって、バタバタという音を響かせて走っていた。あとで聞くとあれは空冷車だから急な往診の時もすぐに発進できたからだという。だから、その昔の医者は多くバイクに乗っていたのを理解した。鋲の付いた革の鞄を後ろに載せていたものだった。くろがねや陸王やはたまたハーリィー・デイヴィッドソンなんてバイクだ。
 丘の上の某一流海運会社のお偉いさんのお宅にも運転手つきの黒い車があったのを覚えているけれど、その車種がなんだったか思い出せない。お隣の貿易会社を経営している方のお宅には立派な車庫があって、その上に運転手一家が住んでいた。車は何台か替わったような記憶だけれど、一番インパクトがあったのはなんたってシボレー・インパラだった。後ろが羽のように釣り眼に尖ったラインがなんともいえなかった。
 ことほど作用にどこのうちにどんな車があったと数え上げられる程度しかなかったのだ。庶民はなんで車なんか持つんだ、公共交通を使え、身分不相応だ、という発想がまだ生きていた時代だったといって良いのだろうか。タクシーに乗るんだって、抵抗があったもんなぁ。