ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

銀座 昔 横浜駅

 何の気なしに昼前にフジテレビのタモリの番組を観ていたら昔の銀座の話をしていた。都電が写真に写っていた。考えて見たらあれがなくなったのは1970年前後だから、今テレビに出てきてわぁわぁやっている人たちの殆どは都電というものを見たこともないということだ。今残っているのは荒川線だけだというテロップが出るけれど、あれは都電の非常に稀な路線であって、あの殆どは専用軌道になっていて東急世田谷線と大した変わりはない。雨の日の都電の線路ははなはだ滑りやすいもので、かつての「神風タクシー」はそんなことは気にもしないんだぜ風情でツル、ツルッとしながらぶっ飛ばしていたものだったじゃないか。尤も地下鉄工事で道路のあっちもこっちも鉄板道路となっていて、ビービー音を立てながら走っていた。
 こうして私が当たり前だと思っていたことはどんどん昔話になっていくのである。
 昔話といえば、横浜駅の西口に建っている横浜駅ビルが建て直すことになっているのだそうだ。今はCIALとかいう妙な名前がついているらしいけれど、それは多分相鉄系会社だったのがJR系にうっ飛ばされてからのことだろう。とかくJRは何を考えているのか知らないけれど、訳のわからん名前を使うのだ。相鉄系だったのか、同じ横浜のジョイナスなんかはちゃんと意味があるけれど。このビルが建ったのは1962年だから東京オリンピックの2年前ということになる。私は高校受験の頃のことで、それまでの東横線横浜駅のことが思い出せない。高架の駅だったのはもう戦前からのことで、プラットフォームからとても暗い階段を下りて高架下を歩いて木組みでできた改札(当時はどこもかしこもそういう改札だった)を出た記憶だけはある。
 この建物ができたときはそれはそれは鳴り物入りで、確か建物の愛称やらマークやらを公募したような記憶がある。それでもついたのは横浜ステーションビルだったし、マークも単純な「y」の字をデザインしたものだった。
 このビルの中には栄松堂という書店があって、ここの売りは「カバーをおかけしますか?」と聞いてくれて文庫だろうと新書だろうと、ピシッとキチンと折り目のついた実に気持ちの良いカバーを掛けてくれることだった。今となっては紙カバーをつけてくれるのが当たり前で、「要りません」というとひと頃は怪訝な顔をされたくらいだ。私は日に焼けてしまうのはわかっているし、手で持ち続けていると汚れるのはわかっているけれど、瞬時に判別できないので、カバーを掛けるのが好きじゃない。しかし、当時はカバーを掛けて貰って持って帰ってきては直ぐに背中に書名を万年筆で書くのがとても嬉しかった。後日、意を決して、そんなカバーを全部はがしてしまった。高校生、大学生の時の私にとってこの栄松堂はオアシスだったといっても良いだろう。地下街にいったら当時としては驚異的に大きかった有隣堂があるのに、なんで私は栄松堂にばかり上がっていたのか、理由が見つからないけれど、少なくとも優柔不断な雰囲気のあった有隣堂よりはなんとなく神保町の古い専門書古本屋のような頑なさの残るような(その実はそんなことはなかったのかも知れないけれど、そう思い込んでいた)栄松堂を愛用していた。会社員になって東京駅周辺で仕事をするようになってからでも、八重洲地下街の栄松堂まで行っていた。
 このビルの上の階には、前にも書いたけれど、当時でいう「ジャズ喫茶」、今でいうライブハウスがあって午後からGSのバンドが出ていたことを憶えている。横浜駅の西口、ヤマハの向こうの川を渡った先にも、名前は忘れてしまったけれど、それに近いものがあったことも今思い出した。いやぁな思い出付きだ。日本語でいうと「友だち」のような意味の名前だった記憶がある。
 来月はかつての職場での集まりが駅ビルである。多分これが最後になるのだろうから、いって見ようと思っている。それにしてもこんなビルはたったの50年でもう老朽化してしまうのか。人間って結構持つもんなんだなぁ。とはいえ、あちこちガタガタだけれども。