ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

今週のお題「20歳」

 もう既に、とっくのとんまに20歳x3回が通り過ぎてしまったのだから、今更、今週のお題をいただいて語る必要なんぞないじゃないかと思うのだけれど、ついうっかりその気になった。
 丁度かっきり20歳の時は、全くの話がお恥ずかしい限りなのだけれど、とにかく遊び呆けておって、学費を出して貰っていることについて全く思いが及んでいなかった。なにしろよその高校生に向かって、親が金を出すのは当然のことで、何も遠慮するこたぁない、どんどん要求したら良いんだ、位のことを平気でいっていたことをお恥ずかしながら想い出すのである。
 社会生活に放り出されて配属された職場に関連したセクションに上司に連れられて挨拶にいったら、その職場の長たる人物が、まさに自分がそういい放った高校生の親父さんで、行くなりその話をされた時には、実に困惑したものだ。どんな顔をして良いのか、相当に参った記憶がある。その高校生はその親父さんに多分そう主張したんだろう。正直にも程があると私が云うべきではないだろうけれど。
 それ位、勉学にいそしむこともなく、クラブ活動にいそしんでおった。おかげで今でもその時の友人とはなんだかんだと連絡しているし、一緒にバンドまでやっている。今から考えると当時の私はかなり社交性が高くて、どんどん知らない人たちの中に加わっていっていたようだ。今のようにSNSで「繋がってください」とリクエストが来ても見も知らない人とは決して繋がらないというようなことは昔だったらなかったかも知れない。
 ところが社会人になってからというもの、人との繋がり、あるいは新たな局面への参入ということにすっかり臆病になったというか、慎重になっていったようだ。むしろ多くの人たちのために一肌も二肌も脱ぐことに疲れてしまったといっても良いかも知れない。むしろ静かにしていたかったといっても良かったかも知れない。
 20歳から40歳までの20年間、つまり30代を中心にした時期はほぼ会社だけで暮らしていた。時期は全く右肩あがりの勢いで、どんなことをやってでも暮らしていけるだろうとタカを括っていた。こんなことなら、当時の自分の能力をそのまま抱えてどこか外国にいって起業して暮らしてだっていけるんじゃないかと思っていたから、多分相当に生意気そうに見えたに相違ない。エネルギー危機が世界レベルで問題になって、一時期ガクッと来たと思っていたけれど、自分が働いていた業界はまだまだ仕事は転がっていそうだった。鼻持ちならない雰囲気の会社員だっただろう。今、その当時の自分に出逢ったら、二度と会いたいとは思わなかったかも知れない。ところが世の中の趨勢と異なって80年代後半になって移った職場は大いに右肩下がりとなっていて、業界全体で再編の嵐が吹き始めていた。世の中がバブルだなんだといっていた時のことだ。そこから会社自体はどうにかして世の中の勢いに乗り移ったものの自分自身は乗り移れなかった。すでに「戦力外通告」を受けていいたようなもので、あたかもトライ・アウトに出ていた。なかなか思うようにはならなかった。やる気がどんどん失せていっているのが自分でもわかった。
 私が丁度40歳の頃には、ボーイスカウトの下の年代のための「カブ・スカウト」に首を突っ込んでいた。この時は私だけではなくて、連れあいも、従って下の娘も巻き込んでの活動になった。それからの10年間はほぼ私生活はこれを中心にして廻っていた。毎月のスケジュールをこなすために、その準備やら実行やら、自分の勉強やらに費やしていた。今残っているものを見ても、良くもまぁ仕事をこなしながらこんなことをやっていたものだと感心する。そんなある日、そういう活動をやっているといったら、友だちのそのまた友だちだと称する何となく世の中を斜めに見ている調理師が「そういうことをやっている人ってのはもう殆ど一線で戦えない人なんだと思っていたよ」といわれて図星なのが辛かった記憶もある。
 そしてごく身近な20年は概ね前半と後半に分かれるのだけれど、前半はいろいろ抗った割にはやっぱり旨く行かなくて、もがいた挙げ句に刀折れ、矢尽き、それではと後半では全くそれまでの人生をきっぱりと捨てて行くことにしたものだから、3回目の20歳は驚くほどの環境の変化の中で迎えたといっても良い。

 10年単位でものを考えるというのが概ね昔から繰り返されてきた時間の振り返りだけれど、こうして20年間を区切って考えると、結構人間の人生なんて簡単なものなのである。