ほぼ足りてまだ欲 その先

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国の責任

 国家が「責任を取る」「責任を果たす」というのは一体どんな状況をいうのだろうか。会社が責任を取るということは被害を及ぼした人々、あるいは製品の購入者に対してその損害を賠償するということになるのだろうから、新たな完全な商品と取り替える、あるいは慰謝料を含めた賠償金を支払うということで責任を果たすということになるのだろう。
 しかし、国家、あるいは永田町といわれる政府、もしくは霞ヶ関といわれる各省庁が政策の実行に当たって間違いを犯したとき、永田町と霞ヶ関はどんな責任を果たすのだろうか。責任者が処分と称してその任務から外される、ということが責任を取る、果たすということになるのだろうか。それは責務からの逃亡ではないのか。被害を受けた人々がその被害に対して賠償してくれと訴訟を起こしたとしても、徹底的に裁判を闘って、長期にわたる裁判に持ち込み、最後にはその原告がもうとっくに死んでしまってから最高裁が結論を出したとしても、もうすでにその時には政権担当者も、霞ヶ関の行政機関の長も政権から降りていて、あるいは退職して天下りを楽しんだ挙げ句に悠々自適に暮らしている。これは「責任を取る・果たす」からほど遠い。
 今ここで、「安全が確認できた」と大嘘をついて原発の再稼働に踏み切ったとしよう。その結果またぞろ同じような事件が起きて同じような状況に陥ったとしたら、野田政府、地元県、町(あんなふざけた町議会だから話題に載せることすらやめたいくらいだが)の連中はどんな「責任の取り方」をするというのか。
 先日の国会事故調での佐藤雄平福島県知事の冒頭の発言を聞いていたらこの人間に「責任を取る」という意識がかけらほどもないことを痛感した。
 行政が間違った決断を下して国民に大きな被害を及ぼしたとしても、彼らは刑に服するということもないのだし、それまで稼いだ収入を拠出するということもないのだから、私たち国民は彼らが「生命をかける」といっても信用してはならないのだ。彼らがかけるのは「政治生命」だったり、「高級官僚としての存在」でしかないのだから。彼らは「人間としての信頼」を失ってもなんら困らないのだろう。