大津の事件は警察が入ったら次から次にあの生徒を標的にした暴行が白昼堂々と行われ続けたことが明らかになって出てくる。さながら地獄絵そのもので、死にたくなる気持ちがよくわかる。明日の朝目がさめなかったらどんなに良いかと何度も思ったに相違ない。どこか誰も知っている人がいないところにいってしまったらどんなに気が楽かと思ったことだろう。
多くの同級生も、何人かの教師も、見て知っていたけれど、怖くて何もできなかったという状況に陥っていたことだろう。しかし、これは一般社会そのものの映し出しだ。オウムのサリン事件のあの朝、私は事件が起きているのを知りながらそのまま仕事に急いだ。朝、駅に行く途中の道路にごろっとそのまま転がって寝ている人がいたからといって立ち止まって声を掛けるかといったら多分掛けない。電車の中で中途半端に座って三人分の席に荷物を広げているおばさんに何かをいうかといったら多分いわない。
それは程度が違うということかもしれないけれど、実はこうした行為と対して変わりはないだろう。祝島に中国電力が警備員を大挙して送り込んで上関原発の準備をしようとしていることを新聞の片隅で知っても「あぁ、どうせ最後は電力会社にやられちゃうんだよね、後ろにいろいろな人がいるからね」と訳知りにいって何もしない。
それと何も違わない。勇気を持って指摘しないと、何も変わらない。原発だって止まらない。学校の中での暴行事件があとを絶たない。
しかし、なかったことにして終わらせようとする権力側に対して戦いを挑んだご両親には頭が下がる。訴訟を受けて、弁護士に対応を任せっきりにした権力側は結局それでは終わらないことにようやく気がついたことだろう。