ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

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 人間は面白いもので、恐ろしいもの、おどろおどろしいもの、見たくないもの、知りたくないものを察知すると、それを無意識のうちに否定する。その行為は心理学的にも語られていて(心理学の解釈は様々に解釈できてしまうけれど)、心の中ではそうであって欲しくないという意識が無意識的にこみ上げてきて、客観的な事実を見せられても「いや、そんなはずはない」といってそれを否定する。それが決定的な危機に際しても働くのは事実で、私たちはそれを政治的選択の場面(まぁ、平たくいったら選挙ですな)でも、作用するし、福島第一原子力発電所の事件でも明確に作用してきた。
 あの事件直後に多くの放射能汚染物質が拡散されたから、東日本の人々はできる限り避難した方が良かったのは、今となっては数々の資料から証明されてきているけれど、その一切を政府は公的に発表することがないし、従って今のマスコミも取り上げることはしない。逆に、「直ちには影響はない」と公言し、それをマスコミがそのままにしておいたので、人々は「彼らがそういっているんだから大丈夫」と今でもあの時を振り返ることをしない。
 しかし、事実は事実として発生しており、その影響はどんなに見ようとしなくても、どんなに「そんなはずはない」といったところで作用するのである。本当はどんなにパニックになろうと被害を最低限に抑えるために国のリーダーは国民を避難させ、マスコミはその口となって明かりを指し示さなくてはならない。それが国をリードするということであって、パニックに陥らせない、という目的のために彼らを犠牲にするのは許されてはならない話だ。
 これと同じように、国の政治体制を決定する選択に際して、今誰がリーダーとなったら何が起こり、どんな事態になるのかということを指し示すという意味でマスコミはとても重要な立場にいる。それが誰がリーダーになったらこんな恐ろしい状態になるのだということがわかっていても、自分の利益のために、それをおろそかにする様になったらもうそれはジャーナリズムではなくてカルトそのものとなる。
 その典型が読売であり、産経である。彼らがいうことを「そうであって欲しい」と受け入れる。それはなぜかというと、今までの価値観に基づく世の中の仕組みをひとつひとつ検証してやり直すのが面倒くさいからだということがある。
 これまでの人との関係を考え直すというのはとてもエネルギーがいる。それまでの価値観を置き換えるというのはましてや様々な辛いことも含むことになる。だから、人は見てみないことにする。
 大気中のチリを顕微鏡で観察して、花粉に混じって放射性廃棄物の破片を見つけてしまっても、これは何かサンプルの間違いだと思おうとする。
 島の領土を守るために昭和前期の体制に戻して軍隊を正当化することになったらどんなことが起きるのかは過去の歴史をひもといてみたらすぐさまわかることなのだけれど、それでは弱虫だと思われてしまうから、「そうだ、そうだ、あいつらをやっつけろ」の声に同調する。「そんな考えはまた死者を増やすぞ!」とあの犠牲になった300万人の人たちに申し訳が立たないぞと警句を発するのは「弱虫がすることだ」と非難するのは実は楽だ。なぜかわからないけれど「やっつけろ」というのはただそれだけで自分が強いものになったような気がするのだ。
 しかし、それはただ単なる「無責任」でしかない。
 放射能なんてたいしたことはないのだというのも、あいつら怪しからんから軍隊を再構築だ、というのも次の世代に対する「無責任」そのものだ。奴らからこの国を取り返さなくちゃならないのだがなぁ。