ほぼ足りてまだ欲 その先

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訃報


 (写真:Los Angeles、Little Tokyoにある「Go For Broke monument」)

(CNN 2012.12.18 Tue posted at 10:17 JST) 半世紀わたって米上院議員を務めてきたハワイ州選出のダニエル・イノウエ議員が17日、呼吸器合併症のため米首都ワシントン近郊の病院で死去した。88歳だった。
先週から入院し、酸素吸入の処置を受けていたが、同日午後5時すぎ、妻と息子にみとられて死去した。
イノウエ議員は上院歳出委員会、商業科学運輸委員会、情報問題特別調査委員会の委員長を務めていた。2010年に9期連続当選を果たし、上院での在任期間はロバート・バード議員に次ぐ2番目の長さだった。
第二次世界大戦中、旧日本軍による真珠湾攻撃から間もなく米陸軍に入隊。イタリアで従軍中に片腕を失い、後に名誉勲章を授与された。
最近、自身の功績を振り返って「ハワイ住民および米国民の代表として誠実に務め、できる限りのことをやってきた」と語っていたという。最後に残した言葉は「アロハ」だった。

 重鎮を喪失した。ダニエル・イノウエ日系人部隊として今に至るまでその名が日系米国人社会の中で語り継がれている442部隊の一員としてヨーロッパ戦線に従軍した。 日本の若い人たちには知られていないかも知れないけれど、この部隊は欧州戦線の過酷な前線に投入され、多くの犠牲を出した。彼らの多くは日本帝国海軍による真珠湾奇襲によって始まった太平洋戦争以降、米国人でありながら米国政府によって拘束され、強制収容所から志願していった者達が多く含まれている。
 彼は戦後、日米の架け橋となって多くの役割を果たしてきた。十年ほど前に外務省が絡んだ日米交流活動の講演会で彼がこんな話をした。
 時の首相だった岸信介が訪米中にダニエル・イノウエをはじめとした日系米国人と交流した時に、ダニエル・イノウエが「私たち日系米国人は両国のために役に立つことができると思うからなんでもいってほしい」と提案した。すると、岸信介の反応は「日本を捨てて他国に行った人たちにお願いするようなことはない」というものだったというのだ。彼はその時に大きく失望したのだけれど、「今はそんな誤解があるとは思えないが、日々の交流が必要なのだ」という話だった。
 日系米国人社会はあの強制収容所の措置に対して戦後粘り強く運動を繰り返し、ついに1988年8月「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」にリーガン大統領が署名し、アメリカ政府は初めて公式に日系アメリカ人に謝罪し、当日時点で生存している被強制収容者全員に対してそれぞれ2万ドルの補償金を支払ったのだ。
 フランクリン・ルーズベルト大統領による大統領行政命令9066号が当時の日本人・日系人社会を壊滅的に破壊したことは許されることではないが「戦時中のことである」として放置せず、戦後に補償したという事実は重要だ。私たちは胸に手を当て自らの戦後史を振り返る必要がないとはいえない。
 東京藝術大学大学美術館で開かれた『尊厳の芸術展-The Art of GAMAN-』を見逃したのは残念だった。
 ダニエル・イノウエは2008年1月に「全米日系人博物館(こちら)」館長 アイリーン・ヒラノと再婚している。この全米日系人博物館の敷地の隣に「Go For Broke monument」が立っている。これが442部隊を記念するモニュメントで、今でも続いているかどうかわからないけれど、元442部隊の退役軍人が来ていて訪問者に解説をしてくれる。また、彼らは「Go For Broke」というウェブサイト(こちら)を持っていて、多くのメンバーの「オーラル・ヒストリー」を見ることができる。

追記

 朝日新聞アメリカ総局長・立野純二がダニエル・イノウエについての記事を書いている。→ こちら
 読めなくなってしまうので、僭越ながらここに引用しておく。

貫いた「義務と名誉」 日米の無二の懸け橋 《評伝》
 【アメリカ総局長・立野純二】日本に民主党政権が誕生し、日米関係が揺れた2009年の12月。私はダニエル・イノウエさんと約1時間ひざ詰めで向き合い、日米の現代史を生き抜いてきた重鎮の忠言を請うた。
 イノウエさんの座右の銘は「義務と名誉」である。普天間基地問題をめぐる摩擦について私はあえて、その銘に照らしてどうかと問うた。答えはゆっくりと重厚な語り口で返ってきた。
 「日米は長い年月をかけて、互いに名誉と尊敬を抱き合う関係に近づいた。その積み重ねを決して損ねてはいけない。人は義務を果たそうとすると過剰な行動に出てしまうことがある。いまは声を和らげ、柔らかく考えることが大切だ」
 近年、この人ほど日米関係に心を砕いた米政治家はいない。2007年の従軍慰安婦問題をめぐる米下院の非難決議に反対し、F22新型戦闘機の日本への売却を米国が見送った問題でも両国間の調整役を担った。「あらゆる局面で打開への示唆を与えてくれる日米の無二の懸け橋だった」と藤崎一郎前駐米大使は言う。
 「義務と名誉」は世代を超えた家訓でもあった。実家は今の福岡県八女市にあったが、1899(明治32)年、家屋3軒を焼いた火事の出火元として賠償の責を負い、一家でハワイへ出稼ぎ移住。祖父がいつも繰り返した二つの日本語が、祖国を知らぬ少年の胸に焼き付いた。
 日米開戦後に収容所送りになった同胞の尊厳のために米陸軍に志願。イタリア戦線で右腕を失いながらも勇猛な戦績を挙げ、勲章を受けた。米国人としてのアメリカン・ドリームは完遂したはずだが、立志伝はそこでは終わらなかった。
 戦後の日本との苦い出会いが、ルーツの魂を揺さぶったのかもしれない。若き連邦議会議員として晴れの訪日を果たし、当時の岸信介首相と面談したときのこと。「いつか日系人が米国大使となる日が来るかも」と水を向けると、首相はこう答えた。「日系の人が来られると、日本の社会では苦労するかもしれませんよ」
 祖国では日系人が疎遠な目で見られると知った動揺を、晩年も折に触れて語っていた。だが、それが人生後半の心のバネだったのかもしれない。2009年に上院歳出委員長に就き、そしてアジア系としては史上最高である大統領継承順位3位の上院仮議長にのぼり詰め、名実共に米政界の最長老になってなお追い続けた目標は、日系人の地位向上と日米関係の強化だった。
 3年前、全米の日系人を束ねる団体「米日カウンシル」を立ち上げる原動力となった。太平洋戦争で切り裂かれた日本と日系人のきずなを結び直すことが人生の集大成だったようだ。近年のニューヨークでの講演をこう切り出したのが印象深い。「私が米国人であることを疑う人はいないと思うが、同時に私は誇り高い日本人でもあります」
 昨年に日本政府から桐花大綬章を受けたときの喜びはひとしおだった。ワシントンの大使公邸での祝賀会で、目を潤ませながら繰り返した。「義務と名誉が私を支えてきた」と。今の日本ではなかなか出会うことのできない、日本魂の政治家だった。

DENSHO-The Japanese American Legacy Project
→ こちら

From the Director: Tom Ikeda
The Japanese American community lost a beloved leader this week with the passing of Senator Daniel K. Inouye. Although Senator Inouye represented the state of Hawai'i, many Japanese Americans saw him as our Japanese American U.S. Senator, someone to seek counsel and help with federal government issues.

For example, during the redress movement in the late 1970s, Japanese American community activists sought payments for individuals who were unjustly incarcerated during World War II. While the activists wanted immediate action, Senator Inouye proposed forming the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians because he recognized Congress wasn't ready to pass this legislation. This approach worked as the findings from this commission led to the passage of the Civil Liberties Act of 1988 which provided for a presidential apology and a $20,000 payment for individuals affected by the government's actions during WWII. After the legislation was passed, Senator Inouye made another critical contribution when he used his knowledge of government appropriations to make the redress payments a 10-year entitlement program to ensure all payments were made quickly without the need of annual U.S. Congressional approval.

However, as important as Senator Inouye's contributions were at the national level, I will remember him most for his warm support of the Japanese American community in Seattle. He would graciously take time from his busy schedule to travel across the country to speak at community events, especially those that paid tribute to Japanese American veterans, knowing his presence would boost attendance, and his talk would entertain and inspire the audience. And afterwards, he enjoyed going for a drink and telling stories with his deep, rich voice that would first mesmerize and then have us howling with laughter.

When we last parted a couple of months ago, I asked the Senator how we could ever repay him for all of his help. He paused and smiled, and simply said to continue to help others and serve the public.

Mahalo Senator Dan, may you rest in peace.