ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

教皇広島での演説

「私は言おう、私の兄弟、友のために。あなたのうちに平和があるように」

あわれみの神、歴史の主よ、この場所から私たちはあなたに目を向けます。

死といのち、崩壊と再生、苦しみと慈しみの交差するこの場所から。

ここで、大勢の人が、その夢と希望が一瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、影と沈黙だけが残りました。

一瞬のうちに、すべてが破壊と死というブラックホールに飲み込まれました。

その沈黙の淵から亡き人々の凄まじい叫び声がいまなお聞こえてきます。

さまざまな場所から集まり、それぞれの名を持ち、中には異なる言語を話す人たちもいました。

その全ての人が、同じ運命によって、このおぞましい一瞬で結ばれたのです。

その瞬間は、この国の歴史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

この場所の全ての犠牲者を記憶にとどめます。

また、あの時を生き延びた方々を前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。

その後の長きに渡り、身体の激しい苦痛と、心の中の生きる力を蝕んでいく死の兆しを忍んでこられたからです。

私は平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。

激しい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い出し、現代社会の人々の願いと望みを胸にしつつ静かに祈るためです。

とくに若者たち。平和を望み、平和のために働き、平和のために自らを犠牲にする若者たちへの願いと望みです。

私は記憶と未来にあふれるこの場所に、貧しい人々の叫びも携えて参りました。

貧しい人々はいつの時代も憎しみと対立の無防備な犠牲者だからです。

私はへりくだり、声を発しても耳を貸してもらえない人々の声になりたいと思います。

現代社会が直面する増大した緊張状態を、不安と苦悩を抱えて見つめる人々の声です。

それは、人類の共生を脅かす、受け入れがたい不平等と不正義、私たちの共通の家を世話する能力の著しい欠如、また、あたかもそれで未来の平和が保証されるかのように行われる、継続的あるいは突発的な武力行使などに対する声です。

確信を持って、改めて申し上げます。

戦争のために原子力を使用することは、現代において犯罪以外の何ものでもありません。

人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家におけるあらゆる可能性に反します。

原子力の戦争目的の使用は、倫理に反します。

これについて、私たちは神の裁きを受けることになります。

次の世代の人々が、私たちの失態を裁く裁判官として立ち上がるでしょう。

平和について話すだけで、関係する国々との行動を何一つ起こしませんでした。

戦争のための最新鋭で、強力な武器を製造しながら、平和について話すことなど、どうしてできるでしょうか。

差別と憎悪の演説という役に立たない行為を、いくらかするだけで、自らを正当化しながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤とし、正義に従って実現し、愛によって息づき完成され、自由において形成されないのであれば、単なる「発せられる言葉」に過ぎなくなると確信しています。

真理と正義を持って平和を築くとは、「人間の間には知識、徳、才能、物質的資力などの差がしばしば著しく存在する」のを認めることです。

ですから、自分だけの利益を他者に押し付けることはいっさい正当化できません。

その逆に、差の存在を認めることは、強い責任と経緯の源になるのです。

同じく政府は、文化や経済成長と言った面では、それぞれ正当に差を有していても、「相互の進歩に対して」全ての人の善益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築きたいと真に望むならば、武器を手放さなければなりません。

「武器を手にしたまま愛することはできません」

武力の倫理に屈し、対話から遠ざかってしまえば、いっそう犠牲者の廃墟を生み出すことがわかっていながら、武力が悪夢をもたらすことを忘れてしまうのです。

武力は「膨大な出費を要し、連帯を推し進める動きや有益な作業計画が滞り、民の心理を台無しにします」。

紛争の政党な解決策であるとして、核戦争の脅威で威嚇することに頼りながら、どうして平和を提案できるでしょうか。

この底しれぬ苦しみが、決して超えてはならない一線を自覚させてくれますように。

真の平和とは、非武装の平和以外にありえません。それに、「平和は単に戦争がないことでもなく、絶えず建設されるべきもの」です。

それは正義の結果であり、発展の結果、連帯の結果であり、私たちの共通の家の世話の結果、共通作を促進した結果、生まれるものなのです。

私たちは、歴史から学ばなければなりません。

思い出し、ともに歩み、守ること。この3つは倫理的命令です。

これらは、まさにここ広島においれ、より一層強く、より普遍的な意味を持ちます。

この3つには、平和となる心の道を切り開く力があります。

したがって、現在と将来の世代が、ここで起きた出来事を忘れるようなことがあってはなりません。

記憶は、より正義にかない、いっそう兄弟愛に溢れる将来を築くための保証であり、起爆剤なのです。

全ての人の良心を目覚めさせられる、広がる力のある記憶です。

わけても、国々の運命に対し、いま、特別な役割を負っている方々の良心に訴えるはずです。

これからの世代に向かって言い続ける助けとなる記憶です。二度と繰り返しません、と。

だからこそ私たちは、ともに歩むように求められているのです。

理解とゆるしの眼差しで、希望の地平を切り開き、現代の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条の光をもたらすのです。

希望に心を開きましょう。

和解と平和の道具となりましょう。

それは、私たちが互いを大切にし、運命共同体で結ばれていると知るなら、いつでも実現可能です。

現代世界はグローバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によってもいつも相互に結ばれています。

共通の未来を確実に安全なものとするために、責任をもって闘う偉大な人となるよう、それぞれのグループや集団が、排他的利益を後回しにすることが、かつてないほど求められています。

神に向かい、全ての善意の人に向かい、一つの願いとして、原爆と核実験と、あらゆる紛争の全ての犠牲者の名によって、声を合わせて叫びましょう。

戦争はもういらない!

兵器の轟音はもういらない!

こんな苦しみはもういらない!

私たちの時代に、私たちのいるこの世界に、平和が来ますように。

神よ、あなたは約束してくださいました。

「いつくしみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は点から注がれます」

主よ、急いで来てください。

破壊があふれた場所に、いまとは違う歴史を描き、実現する希望があふれますように。

平和の君である主よ、来てください。

私たちをあなたの平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください!