ほぼ足りてまだ欲 その先

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黒澤貞次郎

 IBMのタイプライターを検索しているうちにこんな人名にぶち当たった。銀座にあるクロサワを興した人物である。(1875.1.5 明治8~ 1953.1.26 昭和28)という。なぜ彼がタイプライターだったのか。1891年にシアトルに渡米し、ニューヨークのエリオット・タイプライター会社に職を得て、同社の日本総代理店契約を得て帰国。(いつ帰ってきたんだろう?)1909-12にかけて社員の手によって銀座にクロサワビルを建設。(社員が煉瓦をくみ上げたという意味だろうか?)。多分これが私が高校生の頃良く入ったあの古めかしいけれど、洒落たビルだったということだろう。それが1962-3年だろうから、この時既に半世紀が経っていたことになるし、戦争をくぐり抜けたということか。

 戦後すぐにこの建物は駐留軍に接収されて、赤十字社として使用されたという。1952年(つまりサンフランシスコ条約締結後)接収解除されて復旧工事が完了した1953年元旦に脳溢血で倒れ他界したというのだから、私が出入りしていたときにはもう既に創業者たる貞次郎はこの世にはいなかったことになる。多磨霊園にこの人の墓があるそうだ。

 ニューヨークではどうやらエリオットの家でバスボーイをしていたらしい。時代が変わってもこの辺は変わらないらしい。私が二十歳そこそこの頃も日本人の若い男子にはバスボーイをしていた連中は何人かいた。どうやら最初のかな文字タイプライターを作ったのはこの人らしい。

 今、蒲田の駅から横浜方面へちょっと行くと、御園の踏切があって、右側に瀟洒富士通のビルがある。今は「富士通ソリューションスクエア」という名前になっている。多分旧町名は蒲田区御園で、ここがかつてのクロサワ商店蒲田工場の跡地だという。私はこの沿線を1960年くらいから10年間ほど電車で通っていたが、富士通のサインがついていたことしか記憶にはない。

 株式会社クロサワの沿革を見ると、1957年に富士通との合弁で黒沢通信工業株式会社(現富士通アイソテック株式会社)を作ったと書いてある。ここから富士通に土地が移管されたきっかけなのではないだろうか。何かありそうだ。

 グーグルマップを見ているうちに、線路を挟んだ東側に都立蒲田高校というのが目についた。私の頃にはなかった名前で、検索するとそのはずで設立は1977年だ。なんでこんな時に新しい高校を作ったんだろう。私たちが高校へ入った頃にできた都立南高(沢木耕太郎の母校)は2005年に廃校になって、跡地には2011年に都立大田桜台高というのが設置されている。東京都は一体何を考えてこんなことを近視眼的にやってきたんだろうと思ったら、例の慎太郎が知事の時のことだ。今もくだらん知事を戴いているが、アイツはとことんぶちこわした。

 あ、いや、話がとんだところに飛び火。黒澤貞次郎が作った蒲田の工場は、どうやらただの工場ではなかった様だ。貞次郎の葬儀の時、つまり1953年に元逓信省工務局機械課長だった大内誠三という人が書いている文章から引用するとこうだ。

 現在の従業員は約150名で,その家族を合わす戸約400名を算するが,氏はこれに対して工場敷地内に住心地よい羨しいばかりの住宅街を 建設して住ましめてある。戦災で今は無くなったが,その教育機関として黒沢幼稚園及び小学校があり,その他娯楽室, 図書館等幾多の施政があって,子弟教育に力をつくされたことは余りにも有名である。
 黒沢工場を尋ねた人は何人も感歎をして帰るのが常であるが,その質問は何時も決まっている。
 これに対して氏は次の如きことを云われている。
 工場に来られた方がきまったように何か信念があるか、資本はどうかとかお尋ねになりますが,これと云って特に遠大な計画とか, 大資本は持っていない,よくこれまでやって来たものと自分乍ら驚きもし感謝もしています。 謂はゞ一粒の良種が幸いに土地を得て温き時の恵みにより芽を吹き,これが従業員諸君の心からなる丹誠により年と共に成長して, 苗となり,水となり,枝を張り,葉をつけてご覧の通りやや大木となったのであります。
 福利施設と申しますか,学校とか住宅の経営或いは食堂の設備については出来る丈やっているつもりであって,特に,従業員 諸君に恩を施すとか何とかいう積りでやっているのでは決してありません。私は年少にして働かねばならぬ境遇に置かれました 関係上,自分等と一緒に働いてくれる方々の子弟をして曾て私が甜めたような苦杯を喫せしめたくない。どんなことがあっでも 小学校丈は満足に卒えさせてあげたいと斯様な考えから学校を作りました。
 また近くに住宅があるので,家に帰って一家団らんのうちに食事をするということは家庭愛からみて誠に結構なことで ありますが,工場の食堂で一同が一緒になり,さゝやか乍ら昼食を共にするということも一つにはお互が苦しかった昔を偲ぶ よすがにもし,また一つにはお互の親密を増すためにも幾許かの効果があろうと思っています。
 住宅につきましても以前は家賃が高かったので住宅を作ったならば従業員の方々にも多少楽になって貰えるかと1軒,2軒と 増して行ったのが今のようになったのでありまして,樹木が相当ありますのも或いは儲けて作ったのであろうと思われるかも 知れませんが、この樹木の一部分は苗木であるが他の大部分は種からの芽生であって、これまた時の恵と人の丹誠の所産に 外ありません。学校も幼稚園もここでは只生きた人間を作る基礎教育さえすればよいのだと考えております。
これらの福利施設と中しますかを作るのに一時纏った金を出したのでは決してなく,その時々に作ったので,今から顧みてもよくもまあ 出来たものと我乍ら感心もし,また驚いております。総てこれ丹誠の華であり実であって,決して私のみの功労ではありません。
 因みに云う,今でも社宅の家賃は4円,5円,15円で電気,水道代も含まれている由で,しかも家賃のとリ方は月給袋より 差引かず,各自が納めるというのも今時に珍らしいことである。

 この引用が1953年であることを考えると、社宅の家賃が4円だ、5円だ、15円だというのは驚くべきである。私が5歳くらいの時で、東横線の子ども料金の初乗りが5円である。私もこの頃親父の会社の社宅に住んでいたけれど、家賃がいくらだったか聴いておけば良かった。しかし、この大家族主義も今だったらうっとうしがられたかも知れない。

 今、富士通の敷地の南、JRの線路の先に自動車学校がある。これは1960年くらいにはもう既に自動車学校だった記憶がある。その先に志茂田小、志茂田中があるがこの敷地は、元はといえば、大蔵陶園の工場があったそうで、それをさかのぼるともともとクロサワの工場敷地だったというのだから、とんでもなく広い土地を貞次郎は入手していたことになる。
 どうやら貞次郎はクロサワ商店を戦後も個人商店として継続していたために、1951年に納税額全国一位だったそうだ。

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