ほぼ足りてまだ欲 その先

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記憶

 1953年に大統領の恩赦によって帰国したフィリピンでB・C級戦犯として服役していた人たちのうち、日本で釈放となった人たちは、横浜で上陸すると、東横線の反町にあった「社会福祉会館」に向かい、そこで説明を受けたと本に書いてあった。

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

フィリピンBC級戦犯裁判 (講談社選書メチエ)

 この社会福祉会館は私が入学した小学校のすぐ下にあった。当時学校でなにか大きなイベントがあると使われたのがこの社会福祉会館だった。学芸会や、映画会はここのホールで行われた。1953年というと私が小学校に入学する前年のことで、私は駅を挟んだ反対側に新しくできた反町幼稚園に通っていた。学年途中でこの幼稚園に入ったらしくて、おふくろに釣られて様子を見に行ったときのことをうっすらと覚えている。この幼稚園での出来事は結構覚えていて、園庭にあった滑り台から風呂敷を背中に翻して月光仮面かスーパーマンのマネをしたような記憶があるのだけれど、当時まだテレビはなくて、そんなものを見たはずがない。では一体何のマネだったのだろうか。うちに「子どもを誘拐するぞ」という脅迫状が来て幼稚園に屈強なオヤジの会社の若者が迎えに来たのを待っていた記憶もある。入れ替わりに交代してきた若者たちは暗くなってオヤジが帰ってくるまで子ども達を相手に遊んでくれていた。あれはどんなことがあって決着したのだろうか。警察にも届けたらしく、ラジオのニュースでこんな脅迫状がこんなうちに北と流されたのを家族全員で聞いた場面も思い出せる。トニー谷の子どもが誘拐されたのは1955年だ。
 幼稚園を卒園したときにもらった卒園証書をくるくると丸めて手にしたまま、滑り台の上に登って記念写真を撮った記憶がある。おふくろが編んだのか、近所のおばさんに頼んで編んで貰ったのか、確か鹿の編み込みがある茶色いセーターを着ていた。新しい毛糸で編んだセーターは新品の匂いがした。当時、毛糸は古いセーターをほどいて、アルミのやかんのようなものに通してまっすぐにして編み直していた。今時のネット環境は素晴らしく検索したら、この道具を「湯のし器」と呼ぶのだということが判明。当時、機械編みというのが流行って、近所のそのおばさんは内職でセーター編みを請け負っていたようだった。
 今上天皇が英国のエリザベス二世の戴冠式に出席する為に訪英したが、横浜から出港したのが1953年3月30日だという。この時私はその車列を見送る為に自作した割り箸にのり付けした日の丸を持って、青木橋の傍の国道に立っていたことを覚えている。車列はなかなか来なかった。たくさんの子ども達が並んでいたのだけれど、あれは多分姉たちが学校から動員されていったのだろう。今から考えてみるとまるでまだ戦中のことのようではないか。