ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

あの時代

 どこかで話題になっていたのだけれど、パソコンがなかった時代、オフィスではどうやって仕事をしていたのか、というテーマ。
私が社会に出て就職した職場では、コピーは湿式青焼き機械だった。できるだけ透き通った紙に鉛筆で手書きで書き〔それ以外に方法はない〕、それを感光紙の上に載せて、光源を通し、定着液でそれを定着してコピーを焼く。濡れた紙は間奏ドラムに乗って出てくる。それでもしんなりしていた。
 いわゆるポータブルタイプライターで英文の原稿を打っていた。私が持っていたポータブル・タイプライターは2011年になくなってしまったシルバー精工が作っていたものだった。元はといえば編み機の会社で、日本のbrotherだって元はといえばミシン屋さんだった。
 電動タイプライターはレミントンとかオリベッティだった。それを駆逐したのがIBMのボール活字の電動タイプライターだった。これは画期的だったけれど、すぐあとに、限定された文字数だけれど、あらかじめ記憶させ、間違っていなければそれを打刻させるという電子式のものが出てきて、これがワード・プロセッサーに繋がる。日本語のワード・プロセッサーは各社が競って特徴のあるものを製品化した。それまでの日本語タイプライターは大変だった。職場の女性の中にこれを打つことのできる方がおられて、ぽつん、ぽつんと打っていた。あれは活字を逆さまに呼んで探すんだから大変だ。
 ワープロで私たちが使っていたのは富士通のオアシスだったけれど、これを使うようになったのは30年ほど前のことだろう。40名ほどいた私が働いていた部に、4台くらいしかなかったが、これを駆使できるメンバーが限られていたからそれですんでいたといって良いだろう。そうでない人たちは手書きでこなしていたか、あるいは女性部員に打ち込んで貰っていた。
 通信方法では、最初の職場ではテレックスで海外とやりとりをしていた。テープを打ち込んで、電話回線をつなげてからそのテープを送り込んで通信する。最初の頃はその仕組みを良くわかっていなかったのだけれど、要するに電話回線に信号を送り、相手はそれを打ち出して文字にするというわけだ。できるだけかかる時間を短くしなくてはならないので、どんどん略語を使う。thisをzsと書いたり。略語は随分前から使われていたんだから、珍しくもない。R.S.V.P.と招待状の最後にうたれたものだけれど、これはRépondez s'il vous plaît「ご返事お願い」だものねぇ。急がないものは航空便の郵便でやりとりしていた。それで仕事が成り立った。良い時代だ。ファクシミリ(facsimile)がやってきたのはいつのことだっただろう。多分この始まりは写真を電話回線を使って送った「電送写真」だろう。ローマ・オリンピックの時に新聞記事に掲載された写真のクレジットとしてそう書かれていたことを覚えている。実際に事務所に導入されたのがいったいいつのことか、全く思い出せていない。気がついたらあった。B3位の図面をコピー機で分割し、それをファックスにして工場へ送るなんてことを良くやっていた記憶があるが、あれはなんでやっていたんだろう。
 1985年頃にいた職場でワープロを使って原稿を書いていたのは私だけだった。それはIBMの機械で、要領を得るのに時間がかかった。自宅にはなにもその手の機械はなかった。職場ではなにを格好つけやがって、要は中身なんだぜ、というシニカルな目で溢れていた。それはオフィス機器の導入が進んでも繰り返された。
 1990年頃になって、追いやられた職場で若手からマッキントッシュのパソコンを入手したら業務の効率化とレベルの向上が図れると聞き、ようやく職場に一台導入することができた。それからは雪崩を打つように職場にパソコンが入ってきた。自宅にパソコンを買ったのは1993年頃ではなかったか。1996年6月に転属になった、たった5名の事務所にはワープロがあるだけだった。赴任にあたってアップルのデスクトップと、自宅にあった一体型を持っていった。専用の電話線を引かせるのに面倒がかかった。ファクシミリがあるんだから、そんなものを使って通信転送する必要なんてない、というのが所長の理解だったからだ。あれから25年になる。1999年に大学に入ってみると、コンピューター室というのがあって、自由に使えていたけれど、今のようにクラウドがあるわけじゃないから、常にディスクにバックアップし続けた。外付けHDDを持ち歩くようになった。めまぐるしい半世紀だった。