多分ほとんどの方がご覧になっておいででしょう。
女性っていうのは競争意識が強い。誰か1人が手をあげていうと、自分もいわなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。
結局、あんまりいうと、新聞に書かれますけど、悪口言った、とかなりますけど、女性を必ずしも数を増やしていく場合は、発言の時間をある程度、規制をしていかないとなかなか終わらないで困る
朝日新聞デジタル2021年2月3日 18時04分
森喜朗会長(83)の3日のJOC臨時評議員会で、こう発言したんだそうです。
なんで男は発言しないでいるのか、という側面を彼が認識していないという指摘があった。なるほどその通りで、多分彼の周りにいる男諸兄は、儒教的なしばり、あるいは競技団体に良くある、先輩後輩意識、あるいは徒党を組む従来からのあり方から推察できるように、現場でこんな爺さんに反旗を翻すことをしないんですな。「ちょっと失礼じゃないですか!?」と向かっ腹を立てるってのはそれですよ。
「先輩、もう今やそんなことをいって通用するような時代じゃないです。誰も彼もが、出席しているところで意見を提示するべきで、それを提示しないんだったらここへ来るな、というくらいでなくちゃいけません」と釘を刺さなきゃならないのですよね。
男連中は表面では何も云わずにいて、裏に回ってから、関係する誰かを通して、「それとなく」ご注進するのを旨とするんでしょうが、もうええ加減にせぇと云いたくなります。
実は教育の現場で、もう既にそんな練習が行われてきていたんですね。
活発な授業を展開している大学では良く見られる光景ですが、授業の中で疑問を持ったら、即座に手を上げて、質問を致します。教える方も「その視点が重要だ」てなことをいいながら、議論を展開いたします。
しかし、全然活発な授業となっていない場合、ま、日本の多くの大学はこんなものですが、全く一方通行の授業で、学生はそれをただのんべんだらりと受け取っているだけです。考えながら聞いていないから、疑問すら浮かばないし、そういうところで、突然手を上げて「今の説明だとこういうケースはどうなるんだ?」的な疑問を提示する学生はほぼいない。むしろ「全部終わってから聞きなさい」という教師すらいる。極端な例では、全部授業が済んで鐘が鳴ってから、教師のところへいって自分ひとりで質問をする。人前で質問するのに必要な勇気がないからと云う。ところがこれは共通認識として持つべき疑問を独り占めするという他人排除の行為でもある、ということには気がつかない。
のんべんだらりの会議は効率を上げよ、というのは利潤追求を旨とする企業の話であって、公的機関では、とことん疑問を潰すという作業こそが重要だと私は思っている。時間がかかって自分は堪えることができないというのであれば、その立場を他の人に譲るべきだと思う。一体何のために、それだけの人間がわざわざ雁首を揃えて集まったのか。
森喜朗のこの日の演説全文を日刊スポーツ紙がアップしています。女性に関する発言はこの長い長い演説の中のほんの一部なんですが、この演説の本当の方向性は、とにかく、日本のアスリートのために、なんとしても今回のオリンピックを決死の覚悟で開きたい、というものなのです。つまり、彼が人生を賭けて考えていることそのものが、大きくずれてしまっていると云うことなのです。浪花節なんです、最後はまるで泣いてでも語りかけるような内容でございますよ。昔の日本だったら、この論法で見事大向こうの喝采を浴びたことでしょうねぇ。それが逆に、哀れみを誘ってしまいます。全文は→こちら。