ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「え」

「エンガワ」
昔はエンガワといったら当然縁側でした。ところが今や日本家屋の縁側というものがほとんど死滅してきてしまいましたので、エンガワというと、寿司で食べるエンガワを意味するようになってきてしまいましたよね。そのエンガワってのは魚のヒレ部分の筋肉のことだってんですが、どの魚だよ、というとヒラメ、カレイ、オヒョウ〔ハリバット?〕らしいです。嫌いじゃないけれど、先を争って食べるほどじゃない。
 縁側というと小学校へ上がる前だったろうか、うちの縁側の節を爪楊枝かなんかで押していたらポンと抜けてしまい、面白くなっていくつも抜いたら、あとでものすごく怒られた記憶があります。ワックスを塗って滑って遊んだしね。その後絨毯を貼られてしまって、縁側はそれらしくなくなってしまいましたなぁ。ましてや「濡れ縁」なんてもう若い人には通じないでしょうね。

エジンバラ城」
スコットランドエジンバラ城に一度だけ行ったことがあります。あんな岩山の上にあるんだとは思いませんでした。そのたった一回のエジンバラ城は全くの霧の中で、上まであがったものの、周りの景色は全く見ることができず、どんな景色なのか、未だに知りません。
あの旅行は、某阪急系の旅行代理店の主催でしたけれど、添乗員のねぇちゃんがサイテーで、ほとんど自分の旅行代わりに来ているような有様。全く誠意のない添乗員でした。これまで加わったパッケージツアーの中でワースト2に入ると云って良いでしょうね。もうひとりはこれまた参加者を見下ろす態度で、「私はいろんなところに行っているのよ」風をこれ見よがしに吹かせるような奴で、そんなの当たり前ジャンか、といってやりたくなりましたよ。

「駅弁」

f:id:nsw2072:20220213211314j:plain:w360:left もはや駅弁という習慣はほとんどなくなってしまいましたね。うちは両親が岡山の出身なので、子どもの頃は何回か岡山に行っていたような記憶があって、東海道線から山陽本線を延々と当時の「急行瀬戸」で行きました。一体全体何時間くらいかかったものでしょうねぇ。最初の時は大阪から先は蒸気機関車だったような記憶があります。
 ネットで調べると、瀬戸の最初は1950年だそうで、当時はただ「広島・宇野行き急行」だったそうです。その時の時刻表で、東京発21:30で宇野着が13:10とあります。15時間以上かかっているわけですね。それが1956年から「急行瀬戸」になったとあります。帰りは岡山から乗ったんでは、三等車が一杯になってしまうからといって、わざわざ岡山から宇野までいって、始発に並んで座りました。そうでもなくては横浜まで座席もなしでこどもが帰るのは気の毒すぎます。姉と二人で座っていると、混んでくると必ずどこかの子どもと三人で座ったものでした。
 そこで駅弁ですが、ここで何度も書いていますが、当時の駅弁は必ず百円と決まったものでした。どこでどんな駅弁を買ったのか、もう全く思い出せません。近隣でいうと、横浜のシウマイ弁当はもう既にあったと思います。大船や小田原には鰺の押し寿司弁当なんてのがあったような。当時、今のようなカメラがあったらなぁと残念です。