ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

清水

季刊といっているけれど、毎年年末に一冊出るだけの清水の雑誌。発行は清水の戸田書店

 いまでは静岡市清水区なんてことになっているけれど、本来的に静岡と清水は成り立ちが違うので、合併するべきではなかったと思っている。清水の人は、別に静岡が中心だなんて思っていないからね。清水には清水があると思っているからね。
 初めて清水へ引っ越したのは、私が小学校4年生の9月、つまり二学期が始まったときだった。
横浜にいた時は正装といえば、今でいえばチャッカーブーツ(あ、今ではもうこんなの知られてないか)のような革靴に半ズボン、イートンスタイルのジャケットだった。
その格好で初めて三保小学校へ行ったから浮いていただろう。
おふくろと二人で、挨拶にいったつもりだったのに、編入したクラスの高橋先生に、今運動会の練習に校庭に集合しているからと連れて行かれ、そのままの格好で、運動会の練習に参加した。そんな革靴半ズボンが急に混ざってきたらそりゃみんな当惑する。
 5年になった時は女性の菊池先生のクラスになったのに、その菊池先生が産休か何かで長期休暇になったらしく、私たちのクラスは分解した。私は男性の鈴木先生のクラスになった。怖い先生だという噂だった。
 ソフトボールのチームを作るといって、今でいえばセレクションが行われた。打てないから、補欠だった。
でもうるさいから、監督ということになっていた。いっぱしの口を利くからね。
それにしてもあの頃の学校はなんであんなにソフトボールが流行っていたんだろう。
学校対抗戦もあって、土曜日の午後に駒越小学校まで対抗試合に行った記憶がある。
もちろん私は選手じゃなかったはずだが、応援に行ったらしい。
 5年生の時に日帰りで横浜東京修学旅行へいった。
まだ真っ暗な朝5時に清水港湾線の三保駅へ集合した。
多分それが朝一番の汽車の時間だったのだろう。
あの頃はまさに蒸気機関車だった。
清水から東海道線に乗って、横浜へ降りた。そこから観光バスで羽田に行き、飛行機を見て、芝の東京タワーへ登った。東京タワーができたのはその前年だった。次の記憶は浅草の雷門の横にある常盤堂で雷おこしを買った。帰りはどこから東海道線に乗ったのか、全く記憶がない。多分東京駅だろう。
 当時、折戸湾には牡蠣の養殖だなが浮いていて、商船大学の湾内桟橋からそれほど離れていないところに牡蠣の殻を外す小屋があった。だから、商船大の桟橋には牡蠣がへばりついていた。それを割って小さな身を取り出して、釣りの餌にした。そんな餌ではろくに釣れない。
 5年生の夏休み、たったひと夏で、私はものの見事に泳げるようになった。4年生の夏休みは毎日市電に乗って間門小学校へ通い、臨海学校だったのに、10mを平泳ぎで泳ぐのが精一杯だった。あそこの海岸は砂の海岸だったのだけれど(だから後年チャッチャと埋め立てられちゃって石油タンク基地になっちまった)、貝殻がたくさん放置されていたらしく、すぐに足を切った。翌日からは、それまで運動会でしか履かなかった白い地下足袋を履いて海に入ったものだった。
 それがたったひと夏で、どこまでも体力の続く限り無限に泳げるようになったのだから、今から考えれば子どもの進歩というのはすごい力があるんだなぁ。翌年、6年生の夏には清水市民大会小学生男子50m平泳ぎに出て、8位(つまり決勝でビリ)になった。
 実は6年生の新学期から、三保小学校から岡小学校に転向していた。なんでか自分は知らなかったのだけれど、多分、三保小学校では私立中学に受からないと母が判断したことがあるらしいが、中学に入る頃には岡小学校の近所に建設中だった社宅に引っ越すことになっていた。なぁに、6年生の一年だけ転校したってたかが知れていて、私はものの見事に静岡大学の附属中学校を受験して落ちた。あとから知ったのだけれど、附属小学校があって、中学で入れる人数はたかが知れていた。それで、東海大学の第一中学校というところへ通った。