ほぼ足りてまだ欲 その先

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中学

 私が中学校に入学したのは1960年のこと。今でいう静岡市清水区に住んでいた。静岡でエリートの中学といったら、静岡大学の附属中学だった。女子は静岡雙葉静岡英和女学院、そして2003年から「静岡サレジオ」と名前を変えた静岡星美くらいだっただろうか。静岡大学には附属小学校もあったから形の上では附属小学校の児童も外部受験の児童も一緒に試験を受けたような記憶がある。その試験が私の落第人生の始まりだった。それで静岡鉄道の柚木駅と自動車試験場の間に校舎があった東海大学第一中学校という私立に通った。一応は共学だったが女子は各クラスに3人ぐらいしかいなかった。1949年に開校された学校だということだけれど、二階建てだったかのコンクリートの校舎はそれほど古くなかった。裏に昔の木造の校舎がボロボロのままそのまま残っていて、最初は今にも壊れそうなその校舎の中にクラスの教室があった。途中からコンクリートの校舎に移ったのだけれど、それがどうしてなのかは、良く知らない。この中学校は後に東海大学付属翔洋中学校となり、今では東海大学付属静岡翔洋高等学校・中等部となって、三保の元商船大学があった場所にある。静岡翔洋高は元を辿ると東海大第一高と東海大工業高で、春風亭昇太は東海第一の卒業生で、アンタッチャブル柴田英嗣は清水二中から工業高だとウィッキペディアに書いてあるから、ひょとすると小学校は二中の隣にある岡小かもしれない。私が卒業した小学校である。当時、東海大第一高校と東海大工業高校は三保の清水灯台に近いところにあって、とても不便な立地だった。高校生たちの多くは清水駅から清水港線というローカル線で三保駅までいき、そこから歩いた。1.3kmほどの距離だから、当時としたらそんなに遠くはない。しかし、この鉄道はそんなに頻繁に走るわけではないから、乗り逃がしたらバスに乗っていくしかない。列車の開けっ放しのデッキに高校生が乗っていたのを覚えている。この鉄道は1984年4月に廃線になった。1972年の年末から1975年の7月まで暮らしていた会社の社宅のすぐ裏をこの鉄道が通っていて、SONYのカセットレコーダーと、SONYのワンポイントステレオマイクを使って、踏切の音を録音したことが懐かしい。多分今でもカセットは残っているはずだけれど、肝心のカセットプレイヤーがもうない。

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 中学の同級生に身体は小さいながら、大変にすばしっこい剣持君というのがいて(剣持という苗字はこの辺に多い)、彼は小学校の頃から剣道をやっていたそうで、中学一年でもういっぱしの竹刀裁きをしていた。私は理由は全く覚えていないのだけれど、軟式庭球部に入った。校門のすぐ脇に、土のテニスコートが一面あって、その隣はこれも当然土のバスケットコートがあった。体育館なんてないから雨が降ったら、その日も、次の日も練習ができない。新人戦に出て、二回戦で強豪校にあたって負けた。その向こうは野球部のグラウンドで、同級生の背の高い青木君はファーストの守備練習をやっていた。垣根も何にもない、そのグラウンドの向こうは静岡県護國神社の森で、美術の時間は良くその境内に写生にいった。神社の裏の山に向かって、クレー射撃場があって、日頃からショットガンを撃つ音がしていた。その傍にいくと素焼きのクレーが捨てられていて、中にはほんのちょっと欠けただけのものもあってそれを拾ってくる。大人に見つかると怒られるので、そこは要領よく立ち回らなくてはならない。クラスは40人くらいしかいなかった様な気がするんだけれど、もうその他の同級生の名前は全く思い出せない。もっとも一年しかいなかったのだから仕方がないか。
 一年の在学といえば、卒業した小学校も6年生の一年間だけだった。だから、1959年に転校して、1960年に中学に入学し、1961年にまた転校したことになる。覚えていなくてもしょうがない。6年生の時のクラスは確か7組だった記憶があって担任は遠藤先生という男性だった。あの辺には遠藤という苗字も多い。同級生で覚えているのは富永という女子が一緒にクラス委員をやったことがあって、覚えているだけだ。

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 この一年は結構中身が濃くて、三保の折戸にあった社宅から毎日バスで通っていた。卒業間際になって、家が学校のそばに引っ越した。最初からそこへ引っ越すことになっていたので、先回りして転校したのだけれど、どうやらそれはおふくろの思惑があってのことで、三保の小学校では私立や国立の中学、高校に進学する雰囲気にはならないだろうと読んでいたらしい。静鉄バスで折戸から波止場まで行き、そこから「市内循環」というバスで「記念塔前」で降りると、岡小学校はすぐ。いまその五叉路は「桜ヶ丘病院入り口」となっているけれど、角の精美軒のパン屋の建物の通りは今でも記念塔通りと地図には書いてある。その肝心の記念塔はかつての清水商業高校(現・静岡市清水桜が丘高)の裏近くにできた桜ヶ丘公園に残っているという。
 夏休みには清水商業高校(通称:きよしょう)の50mプールで開かれた清水市民大会の小学生の部に出て、平泳ぎ50mの決勝でびりっけつだった。それでも清水市で8位だったということになるのだけれど、この大会には小4の二学期から小5の終わりまで在籍した三保小の生徒は参加していなかったので、大手を振っていうには憚るのだった。しかも8位では点数も稼げず、最上級生の面目丸つぶれだった。二学期には静岡放送の音楽コンクールに出たが、声変わりが始まって高音が出なくなってしまった。中学受験をするんだとおふくろに言われていたけれど、それがなにをどう意味するのか知らなかったので、毎日学校の校庭で同級生数名でめちゃぶつけなるボールを当てる遊びに熱中していた。5時にチャイムが鳴ると、職員室の窓ががらっと開いて、「もう家に帰りなさぁ〜い」と怒鳴られていた。あの小学校の校庭には大きな大きな木が立っていて,それが印象深い。
 東海第一中学校の入学式には、東海大の創設者である松前重義がやってきた。当時の私は何のことやら良くわからなかったけれど、後年、松前重義を知るに及んで、あの頃、彼は捲土重来だったのだろうなぁと知った。