ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

散歩

谷中の墓地には面白いお墓がたくさんある。横にはエホバの証人の王国会館もある。

谷中の墓地を歩いて日暮里から西日暮里へ。
京成線の高架に沿って、藍染川西通りが新三河島へ向かって一直線に伸びている。
あまりにも一直線で高架沿いである。
情緒がない。
ないわけで、ここは大正時代に人工的に掘られた放水路だったらしい。
これができるまではちょっと大雨が降っても谷田川の下流の方では水が出たりしたそうで、それで、根津の方へ行く川と今の西日暮里を通って、隅田川へ流れるようにしたんだってんだね。つうことはずっと京成線に沿っていけば隅田川に達する道があるってことなんだな。

 ところが、新三河島の駅の横では、この通りはまっすぐ明治通りを渡れないんだよ。横に行って信号を渡ってまた戻ってくるしかないんだよな。で、明治通りを渡ると、この通りは藍染川西通りじゃなくて、藍染川通りになるんだね。それにしても、荒川区の通りは、もうすっちゃかメッチャカだから、余計にこの通りの真っ直ぐ加減が異常に思えてくるから不思議だよ。

 尾竹橋通りで左折して町屋駅に向かうんだけれど、ここで思いついたのは、このまま電車で北千住へいっちゃうんじゃなくて、足立梅田行きのバスに乗って、尾竹橋でこれを下車、そして北千住駅へ行くバスを捕まえようと。
 しばしお婆さんふたりとお爺さん二人の後ろに並んで10分以上待ってやってきたバスに乗って実に驚いた。後ろの座席はほぼ全部に同じ小学校の標準服を来た高学年児童で埋まっているのである。何か、学校の行事で乗っているのかと思ったらそうじゃない。下校で乗っている。その証拠にバス停が来るたびに一人二人と下車していく。それは良いんだけれど、黙って立っているお爺さんお婆さんを強引に押しのけていく。どこの小学校かと思ったらわが区のN岸小だ。下町の学習院とかいわれていると聞いている(そんなのがあちこちにあって、A草小もK門小もそうだ)。中学校、高校で越境していたお前にいわれたくないわい、といわれてしまうが、このバスに乗っている子どもは全員学区外からの越境通学である。こんなことなら、学区内の児童が少ないのであれば、合併させれば良いんだよね。K門小なんて近辺に住んでいる人たちは極端に少ないはずだしね。それにしても今どきの学校や家庭はこどもに「お年寄りには席を譲りましょう」なんてバカバカしくて教えないのかね。「すみません、通してください」という日本語も教えないのかもしれない。なんにもいわずにゴリゴリ人を押しのけるのが普通になっているのはどういうことなんだろう。そういえば良い歳した男女だって、電車の中で声に出して「失礼」とか「ありがとう」とかいわないものね。行ったら損しちゃうと思っているんじゃないかという気がしますな。
 なんたって「年寄を自動的にこの世の中から排除するシステムをどうするのか」なんてイケシャーシャーと発言するガキをテレビで取り扱うような世の中だから、これくらいは別になんつう事はないんだろうね。

 生まれてはじめて尾竹橋を歩いて渡る。この辺に来ると、隅田川もゆったりとして幅があって、それが広々としている。隅田川の左岸側下流帝京科学大と大書された建物が建っているが、その横に大きなリングが立っている。上半分がかつて千住の四本煙突といっていたあの煙突の一部分なんだそうだ。よく見ると鋲が打たれているのが見える。この校舎の裏に東京電力北千住変電所本館になっているところがお化け煙突が建っていた千住火力発電所だったそうだ。リングが立っているところは元宿小学校の敷地だったそうだ。1963年11月には解体が完了したそうだ。東京五輪の前年だ。

 墨堤通りをペタペタと北千住駅へ向かうが流石にくたびれてきて、千住龍田町からバスで北千住へ出る。墨堤通りは正に墨堤、つまり隅田川の堤防上の通りで、通りに面して立っている建物は裏は数m下がっているものだから、こっちから入った一階は実は裏通りから見ると二階に相当するくらい高さが違う。
 北千住から地下鉄で帰ってきて、480円の煮魚弁當を買う。