ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

明日は我が身

www.msn.com

おすぎとピーコは78歳である。
大して差はない。ほぼ同年齢といって良い。
彼らと私の世代の違いは、彼らは戦中の生まれであり、私達はベビーブーマーだったということだけだ。
 実は文部省の扱いも私の年次以降は課程が変わったので、それ以前の高校卒業生は浪人をすると不利になるといって、彼らは必死になって現役進学を目指した。例えば数学IIは1963年を期して数学IIAと数学IIBとなり、それが数学IIIへつながった(私は微分積分で挫折して数学IIIの授業中は吉村先生の許可を得て、英語の勉強をしていた)。考えてみれば、英語、国語、社会の三科目だけの入試だった私立文系受験であればあんまり影響はなかっただろう。だけれど、明確な一線が引かれてしまっていたことは確かだった。

 しかし、高齢者介護に関してはそんな一線はどこにもない。ほぼつながっている。
 ピーコもとうとう一人住まいになって意識しないでいながら万引する事態に陥ってしまった。脳生理学的な要因はあるんだろうけれども、孤独な生活は人を変えてしまう、それは彼の例を見るまでもなく、容易に想像ができる。
 孤独な生活は、口から言葉を発する機会を失わしめる。一人住まいでなくても、ほとんど口を聞く機会が減ずれば、妄想に陥る可能性は限りなく広がるといってもあながち間違っちゃいないような気がする。
 今日もそうだったけれど、バスの停留所や、通りを歩いていて、ブツブツと独り言をいう老人はごくごく普通にいる。「あぁ、そうか、こっちよりもあっちのバスのほうが先にくるかもしれないなぁ」と呟いているおじさんが私の後ろに立っていた。彼は声に出しているつもりはないかもしれない。普通の人だったら頭の中で考えていることがつい口をついて出るという状況になることはごく普通だ。
 それまで一緒に暮らしていた人間が突然死によって、あるいは他の理由によって、いなくなれば、脳神経的に無傷ではいられないのかもしれない。これは他岸の火事ではなくて、もちろん延長線上につながっている世界である。言葉を口に出して発しないという状況は声帯に与える負荷がゼロになるということによる影響があっという間に出る。若い声は常に声を発しているということによって声帯という筋肉を維持することになる。COVID-19によって私の声帯は致命的なダメージを受けたということから見てもよく分かる。ここにまさにエビデンスが存在している。大声を出して復活を図らなくては。
 話の到着点が意外なところになってしまったなぁ。