ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

曇りだろうと寒かろうと


 人々は、まるで蟻が甘いものがあるところをすぐに見つけるように、その地域で最も桜の花が密集していると思われるところに、ちゃんと集まってきて、ざわざわとしている。今日みたいにどんより曇った日で、しかも寒いというのに。

 隣の区の図書館のサイトをチェックしたら二冊の本が「返却日を過ぎておりますよぉ〜!」と警告されていたので、泡くってお返しに参上した。そうしたら、予約してあった本のうちの一冊が準備できていた。

 

 2005年筑摩書房刊。著者は1933年生。大田区立入新井第5小学校。この小学校は駅でいうと、京浜急行平和島の駅の傍。昔はこのあたりまで海で、海苔の養殖が盛んだった。なにしろひとつ品川よりの京急の駅は「大森海岸」という駅名だ。このあたりの海岸沿いはかつては何軒もの高級料亭が並んでいたという。遠浅の海を埋め立てた小さな島に1944年に捕虜収容所が作られた。当時の資料を読み解くと、必ず出てくるのがこの大森の捕虜収容所である。敗戦後は東條英機などの戦犯を収容した大森プリズンになった。捕虜たちは建物疎開建物解体やその後始末に使役に使われて街へ連れてこられた。ひもじい思いをしていた捕虜が監視の目をかすめて街の人に物乞いをし、それになんかしらの施しをした人たちを、敗戦後開放された捕虜が、ちゃんと見つけてお返しをしたということまで書いてある。米軍は屋根に白いペンキで「P.W.」(Prisoner of War)と書かれた収容所に向けて物資をパラシュートで投下した。海に落ちると、捕虜が抜手を切って泳いで取りに行った。
 戦争が終わってすぐに、高級料亭の中の小町園、悟空林がRAA(特殊慰安施設協会)の施設、つまり占領軍将兵向けの慰安施設になった。これは戦後のことだが、敗戦直前の1945年6月に、今は羽田空港の敷地の中に飲み込まれている穴守町に「産業戦士に対する慰安設備」なるものが作られたとも書いてある。大森山王のお屋敷町はあっちもこっちも占領軍に接収された。


 2007年平凡社刊。こちらの著者は1930年新潟の生まれ。一昨年93歳で他界。「1954年に『思想の科学』に大衆映画論「任侠について」を投稿し、鶴見俊輔の絶賛をうける(ウィキペディア)」。いつもの散歩道にある古本屋の店頭に500円で売りに出ていた。


 谷中のバス停でバスを降り、前の八百屋を覗いて、通り過ぎると後ろから声をかけられる。知り合いの鮪屋さんの女将さんである。その八百屋とは懇意で、そこから千住葱を仕入れている。共通の友人が先月若くして他界したがその死因を聞いた。