ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

中5日

横浜西口 高島屋


 中5日あいての登板、じゃない、散歩である。


 ずいぶん長いこと間があいてしまったからなのか、横浜駅を見に行くことにした。都営地下鉄浅草線で、特急三崎口行きに乗ったので、それから決めた。そうだ!横浜駅へ行こう!と。地下鉄が泉岳寺から品川へ行くのに地表にでたら雨だった。視界が非常によろしくなく、霧雨になっているようだ。安針塚の駅で人身事故があったのでダイヤが乱れているといっている。相変わらずこの辺から京急の特急はブンブン飛ばす。私は第一京浜側に座っていたのだけれど、大森海岸を通過するあたりは10数階建てのマンションがびっしり建ち並んでいて、思わずうわっと声が出そうだった。大森海岸の駅は各駅停車しか停まらないけれど、駅に近いというのは条件が良い。


 三崎口行きは車両の端がボックス席になっていてそれが優先席になっている。若い大柄なアジア人女性が二人、向かい合わせに座っていて、それぞれが大きな荷物を横の席において、イヤフォンを耳に突っ込んで目をつぶっている。いくらなんでもこりゃ日本人じゃないだろう。日本人は優先席でこれはできかねる。ふたりは仲間なんだと思っていたんだけれど、それぞれ別の駅で降りたのは意外だった。降りる時にその大きな荷物を斜めに担ぎ、周囲の乗客をその荷物で殴りながら降りていった。

 蒲田の駅は相当立体的になっていて、多分直通ではない電車で羽田へ行こうとすると、結構迷いそうだ。雑色も六郷土手も名前がそのまま残ったようで、それはそれはようございました。八丁畷も残っているのである。霧雨に煙っている多摩川の土手にあるゴルフ練習場もそのままに残っているのは懐かしい。京急川崎駅のすぐの建物は昔はオカダヤデパートだったか、はたまたさいか屋デパートだったか。川崎には銀柳街というのがあって、良い帽子屋があったんだけれど、健在だろうか。鶴見には様々な記憶が残っていて、どちらかというと、私の人生の中では臥薪嘗胆の時期だった。神奈川新町は昔から特急も停まったが、こんなに若い人たちが乗り降りするような駅ではなかった記憶だが、なにが起きているのだろうか。仲木戸の駅名だけはもはやなく、京急東神奈川になってしまったのは返す返すも残念だ。そんなツマラン名前はどうよ、と思うのだ。そういえば花月園前の駅名を花月総持寺にしてしまったのは時代の趨勢で仕方がないかもしれないね。実は私も行った経験はないのだけれど、1914年(大正3年)に開かれた「花月園」という公園だったのだ。それを戦後1950年に競輪場にした。それもとうとう赤字が続くようになって、2010年3月で閉鎖の憂き目を見る。しかし、総持寺の存在はJR鶴見駅の西の山というイメージがあって、なんだかピンとこない。


 もう横浜駅周辺はでかいビルばかりになってしまって視界が効かない。京急を降りたら、掛かった費用は品川からの料金だけ。そこまではシルバーパスだからだ。自由通路に出ると、驚くほどの人が歩いている。今日は週末じゃないよな、と記憶が既に定かではない自分に問うてみる。歳は取りたくない。この通路も自分が子どもの頃はこの多分半分くらいの幅だった。それも自由通路ではなかった。当時は駅の正面だった東口から西口へはどうやって行ったんだろう。もともと西口はなかった。相模川から掘り出した砂利置き場だった。それが時間を限って開けるようになり、相鉄名店街と高島屋ストアーができて開発されるようになった。それからは嘘のように広がった。高島屋がデパートになるまでは裏にローラースケート場があった。1960年代になるとダイヤモンド地下街ができ、横浜駅ビルができ、どんどん賑やかになっていった。西口に東急ホテルができてそこの中華レストランもなかなかだったせいか、それともそれまで行きつけだった中華街の太平楼がやめてしまったのか、中華といったらそこへ行くようになってしまった。高島屋の中にVANショップができて、おふくろをねだり倒して、ボタンダウンやブレザーを買ってもらった。長ずるに及んで、おふくろに介護の手が必要となって、隣に住んでいた姉が日頃見ていたんだけれど、しょっちゅう交代して出かけると、高島屋の地下で自分用の弁当を買い、おふくろ用の魚を買っていくことにしていたけれど、あれでは返しきれていなかっただろうと思う。


 帰りは東横線菊名で特急に乗り換え、中目黒で日比谷線に乗り換え、六本木でここからシルバーパスが有効な大江戸線に乗り換え、大門で都営浅草線に乗り換え帰ってくる。
東横線の特急も京急の特急のようにブンブン飛ばすが、こっちのほうがやたらと揺れて乗り心地が良くない。


 中5日の登板にしてはちょっと動きすぎたかもしれない。いささか草臥れた。