ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

落語

 さて、私の落語との繋がりなんですがねぇ、ご多分に漏れないのでしょうけれど、最初は先代の三遊亭金馬です。あの金歯がきらっと光る、つるっぱげ、今でいったらスキン・ヘッド〔これは英語じゃなくて日本語だそうですが〕のあの金馬です。というのは彼はNHKの専属だったそうで、そればかりラジオで聞いていたらしい。実は小学校の3年生の時だったかに、私は陽転して、つまり、結核を疑われて(本当にそうだったのかも知れませんが)苦い薬を毎日飲まされ、うちの中では外れの四畳半にほとんど隔離状態で、日がな一日、布団に横になって、電蓄でラジオばかりを聞いていたからなんですね。

 当時はほとんどNHKしか聞いていなかったような記憶なんです。ラジオ関東はまだだったけれど、もちろんラジオ東京文化放送ニッポン放送もあったはずなのに、民間放送の記憶は全くない。せいぜい「ちゃっかり夫人とうっかり夫人」くらいのものか。ラジオドラマも、相撲中継も、そして落語だって浪曲だって、「尋ね人の時間」だって、みんなNHKの記憶しかない。NHKの第二放送ってのが教育番組局で、小学生向けの番組もいくつか放送していた。そのうちのひとつが、「マイクの旅」という番組で毎週新しいところを「マイクさん」が出かけていくという番組。そのマイクさんは、渥美清の「男はつらいよ」で知られるようになった、あのタコ社長の太宰久雄だった。この番組は週の後半になると再放送があるのだけれど、その再放送まで聞いていた。

 今じゃネットを探しても見つからないけれど、横浜駅の西口にも寄席があった。横浜駅の西口側はかつては単なる砂利置き場で、私が物心がついた頃は、乗降口としては仮のものだった。だから、開いている時間も限られていて、下は砂利だらけだった。それが1956年4月2日、横浜駅西口名店街と高島屋ストアができた。高島屋の裏はローラースケート場だった。とはいえ、ただ、楕円形にコンクリートのコースができて、廻りは木の柵があるだけだった。相鉄がビルを建て、高島屋がビルになったころ、田舎からやってきたいとこの大学生と二人で「相鉄寄席」なるものに入ったことを想い出す。それは私が中学生だった頃かも知れない。私の生まれて初めての寄せた意見だった。その時高座に出てきたのが林家三平だった。しかし、まだあんなに爆発はしていなかった。演じたのは唐茄子屋政談だった。それだけを覚えている。林家三平をテレビ以外に生で見たのは、多分それから10年ちょっと後、浅草演芸ホールだった。昼席だっただろうか。落語が落ちてきた頃で、城内がガラガラだった。



波多野栄一 百面相 昭和の至芸

 波多野栄一という百面相のお爺さんが出てきたのがとても印象的だった。当時もうすでに70歳くらいだったのだろう。とにかく後にも先にもあんな芸というものは見たことがない。戦前はかなり受けた芸人だったらしい。その頃はトランクを前に置いて、そのふたの陰で、扮装を造って、一人で金色夜叉をやったり、ハットを被って「ジョン・ウェイン」なんてやっていた。今彼のことを話してもほとんど覚えている人がいない。
 中学生の終わり頃、姉が巧いこと父親を口説いてSONYのオープンリール録音機を買った。しかし、それが一番活躍したのはラジオの落語の録音だった。高校生になってからは、友達が買ったビートルズのレコードのコピーに活躍した。おかげで、落語の速記本も知らないのに、落語を覚えた。それをもとにして、高校三年の時に、二年生の小柳くんの口車に乗って、高校で初めての落語研究会を造った。学校祭でかけたのは寄り合い酒だった。小柳くんはませた高校生で、なんと「死神」をやった。こ音を引き受けて下さった先生は国語の先生なんだけれど、名前を失念したままだ。

映画「杉原千畝

 WOWOWで真夜中にやっているのを途中からつい見てしまった。唐沢寿明が千畝で、小日向文世が駐ドイツ特命全権大使大島浩で出てくる。頑迷の象徴みたいな軍人だったという印象しかないのだけれど、ポロッと本当はそうじゃない雰囲気を醸すセリフが出てくるのが、許しがたい。彼は小野寺信の情報も握りつぶした日本を壊した元凶の一人。