ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

1月24日〜30日は全国学校給食週間

 こんな週間って気がつかなかったけれど、そういえばこの文字の並びはどこかで見たことがある様な気がする。給食ってのは学校だけでなくて、病院でも特別養護老人ホームの様な施設でもある。しかし、この文科省のキャンペーンは学校給食に限っているわけだな。
 私が入学した小学校では一年生の時から給食だった様な気がする。給食袋なるものにテレスコピックなプラスティックのコップ(写真がないと想像がつかんなぁ)、箸箱に入った箸、三角巾なんかが入っていたんだけれども、どうもアルマイトの小さなボウルやら皿なんかも入れて持って行った様な気がする。木綿で縫って貰った巾着の様な袋にそれを入れてランドセルの横についている革の紐にそれをぶら下げてカッシャン、カッシャン音をさせて通った様な気がするんだけれどもそれは思い違いだろうか。
 昨日もそんな話が出たんだけれども、小学校に入った頃は校舎がたりなかったらしくて、二部授業というシステムだった。午前中の授業の週は給食を食べて、学校から帰る。次の週は昼飯を家で食べて午後から学校に行く。月曜日はそれを間違えちゃうことが良くあって、昼飯喰ってから学校に行ってみると自分のクラスが給食を食べていて、「あ、今週は午前中だったんだっ!」と給食を食べられなかったことを悔いるのである。毎週時間割がわら半紙に謄写版刷りで土曜日に配られるのに、それを見過ごすのだから迂闊としか云いようがないが、今の様に親もそんなことを先回りして注意したりしなかったのだと分かる。
 もちろん牛乳なんかではなくてあの脱脂粉乳だった。何がいやだったかというとあの匂いがいやだった。だから「頂きます!」の声と同時に鼻から息をするのを止めて、一気に飲み干す。これがなんの理由か知らないがチョコ味なんかが付いていたりするともうじっくりじっくり呑む。出す方もこうでもしないと呑めないと知っていたんじゃないだろうか。私の頃は食べられない子がいても先生のところに見せに行って「せんせぇ〜、もう食べられません」とかいうと、終わって良いことになっていたからみんなが片づけている中で食べるなんてことはなかった様な気がする。
 コッペパンは休んでいる級友の分を近所の生徒がわら半紙に包んで持って行った。一人で行けばいいのに、おまけが付いて2-3人で行った。「○○くぅ〜ん」とかいって声をかけ、お母さんに向かって、真面目な子を一生懸命演じて「パンを持ってきましたぁ〜」と届けた。それでそれぞれの友達のバックグラウンドを知った。
 清水の小学校ではおかずに今では名物となっている黒はんぺんの野菜あんかけが良く出た。最初見た時はこの食べ物は一体なんだろうと思った。しかもあんかけの片栗粉がダマになっていることがしょっちゅうあって、それが気持ち悪くてますます苦手になっていった。長ずるに及んであの黒はんぺんをフライにしたものを会社の弁当で発見して、旨いなぁと思ったことはこれまで誰にも云っていない。
 何があってそんな日があったのか全く記憶にないのだけれど、弁当になる日があった。こんな時に弁当だと云ってケーキを持ってきた男子がいた。なにしろケーキなんて結構なものは滅多に、本当に滅多に食べられやしない頃だったから目を見張った。こんなことをしても良いのかっ!と思った。しかし、彼はその時から甘やかされている奴、という目で見られていたことを思い出す。そういえば彼は(それが必ずしも原因になっている筈はないのに)みそっ歯だった。
 給食がカレーの日は4時間目くらいからもう分かる。「やったるぞぉ〜!」と力が入った。絶対おかわりを目指す。しかし、大きい男子には勝てない(私は終始前から5番目以内のちびだった)。滑り込んだり、逃がしたりした。それでも今から考えれば、それこそスープカレーの様なカレーだ。
 砂糖をまぶした揚げパンの時はもう何も要らないくらいの満足だった。欲がないなぁ。なにしろ小学校6年の時に書いた「大人になったら何になりたいか」に「サラリーマン」と書いた男である。無論夢は実現したが、もう随分前に夢は破れた。
 ところで給食費を払わない家庭が全体の1%に達しているという話をニュースで聞いた。払わなくても食べさせないなんてことはないから良い、という意識だったりするというのを聴いてなんだか虚をつかれた様な気がする。あ、そういう反応が出てきてしまう時代になっちまったということなのか、と。今の給食費は昔の様に給食袋に金を入れて学校に持って行くのではないのだろうか。もしそうだったら学校に持って行かないことをこどもにもはっきりと分かる。払えない家庭の子どもが可哀想だからそうはなっていないのかも知れない。だから子ども自身は自分の給食代を払っているか払っていないかが分からないということか。それでも親は払っていない、滞っているということはいつも気になっているだろうに。後ろめたい、という感覚はもう絶滅したのかも知れない。そういえば前にも書いたけれど、永六輔の番組で「金を払っているんだから、給食を食べる時に子どもに“いただきます”といわせるのはやめろ」といっていた親がいることを知った。意味が違っている。

世界のトイレ事情

 先日友人の事務所でいつもの様に呑み始めた時に、ついトイレの写真を時々撮っているという話をした。そんなに集中しているわけではないからアップするほどのものはないのだけれど、万里の長城の有料トイレの話とか、トイレに行く時に空き缶に水を満たしていくパキスタン人の話や、リビアのガソリンスタンドのトイレの話、豪州のパブのトイレの話とかしていたら、みんなが喜んでくれた。そういえばそんなことをあんまり聴かないなぁと思ってググって見ると・・・いやぁ、世の中は面白い人がたくさんいるもので、ウタリクリエイツ筑波研究所なるものを運営されておられる方がまさに「世界のトイレ情報」なるものを運営されている。トイレの携帯もジャンルわけされていて、それはそれは興味深い。外部から投稿もできる様になっていて、豪州のトイレの情報は手薄の様なので、今度訪豪するチャンスがあったら写真を撮ってこよう。

南極観測船

 毎年11月中旬に東京晴海埠頭を出港して翌年3月末頃に戻ってくる南極観測船といえば「しらせ」である。この船は最大級の自衛艦といわれていた。最初に南極に出かけた船は「宗谷」だけれどもあれは海上保安庁の船。今は名古屋港に係留されている(今でもそうだと思う)「ふじ」と「しらせ」は海上自衛隊の船である。「しらせ」ができたのが1982年のことである。一年間の慣熟訓練で日本の各地を訪れ、1984年から南極観測支援に就いた。従って現在の航海が23回目の支援任務だということになる(私の指計算なんで間違っているかも知れない)。通常の民間貨物船の寿命から考えても、そして南極への過酷な任務を考えても良くこれだけ任務を全うできたことだと感心する。毎航南極圏を脱してシドニーに入港すると観測隊は下船して空路帰国する。シドニーではすでに日本から技術者がやってきていて帰国後の修理についての打ち合わせをする。帰国後は直ちに整備のために入渠する。
 その「しらせ」の代船(次の船)が現在建造中だと新聞に掲載されていた。リンクするだけだとまた消えてしまうので、長くなるが引用させて頂く。

 南極観測、「しらせ」が助けた船が代役に 朝日新聞2007年01月25日
 南極観測で、文部科学省などの関係省庁が、来年秋出発の50次観測隊の輸送に、オーストラリアの民間砕氷船を使う方針を固めた。現在の観測船「しらせ」が来年春に引退したあと、後継船就航まで1年空くための臨時措置。チャーター船の使用は観測史上初めて。予定している砕氷船は8年前、南極海でしらせに救出された船で、こんどは逆に日本の南極観測を助けることになる。
 「オーロラ・オーストラリス」(排水量7880トン)で、しらせよりひと回り小さい。豪州の観測隊と物資を乗せて毎年11〜3月ごろに4、5回、南極を往復している。船室は定員116人。50次隊は、ふだんよりも隊員数を少なくし、約40人分を借りる予定だ。
 同船は1998年11月30日、南緯69度でスクリューが故障。豪州に入港中、救助を求められたしらせが現地に向かい、12月13日に到着。すでに2メートルの厚さの氷に閉じこめられていた。しらせは周りを走って氷を割り、ロープをつなぎ、約53時間、315キロを引っ張って氷海から救出した。
 厚い氷の海に囲まれる昭和基地の岸から数百メートルまで近づけるしらせと比べると、オーロラ号は砕氷能力が劣り、その場所に近づけない。70キロ遠方で停船することになる。
 物資輸送には、雪上車は使えず、ヘリコプターだけが頼りだ。前もって運べない食料などの輸送に10日ほどかかる。試乗した国立極地研究所の石沢賢二・極地設営室長は「部屋は狭いが、シャワー完備で快適。食事もおいしい」という。オーロラ号を救助したとき、観測隊長としてしらせに乗っていた極地研の白石和行教授は「助けた者に助けられる。これが国境のない南極だね」と思い出す。
 しらせの後継船は現在約380億円をかけて建造中。1航海にかかる費用よりチャーター代は安くすむが、物資輸送ではしらせ級の砕氷能力が必要と、観測隊は新船の完成に期待する。

 実は私は代船の建造が行われているらしいとは思っていたけれど来年の竣工らしいことを聞いて「慣熟訓練」もしないでそのまま一気に南極まで航海するなんてことを(民間会社ではあるまいし)自衛隊がやるとは思えないが、どうなっているのかと思っていた。なんとその隙間の一年の観測隊支援をオーストラリアに発注するというのである。この記事を読むと能力としては「しらせ」に劣る様なので結構面倒なことが起きる様だ。それにしてもなんで一年前に代船建造を発注しなかったのだろうか。予算的な問題があったのだろうか。そうした疑問にはこの朝日新聞の記事はこたえていない。実態は緊縮財政下で予算が認められなかった様だ。
 「宗谷」は灯台補給船からの改造船である。これは今東京有明の「船の科学館」に保存されている。この船の改造から、「ふじ」の建造、「しらせ」の建造まで横浜の日本鋼管の鶴見造船所が担当してきた。今回はユニバーサル造船舞鶴で建造されている。この造船会社はこの会社から手を引く、引かないで市場を騒がせている日立造船と、日本鋼管のそれぞれの造船部門が構築した会社だからこれまでとほとんど変わっていない。普通であったら同じ会社がずっと受注しているのはおかしいではないかということになるのだけれど、砕氷船についてのノウハウを保持していくことのむずかしさというものがある。なにしろ最後の建造が25年も前なのだからそうした技術を保持していくことはちょっと大変だ。実は自衛艦でいえば潜水艦の建造も三菱重工川崎重工の二社に限られている。これも技術の保持、情報管理の面から限定されている。

散歩

 地元の図書館本とCDを返却。そこから地下鉄一駅分を歩く。今日は面白い物件を見つけられずにとことこ歩く。北風は寒いが、空は真っ青。
 来月の「鹿芝居」の切符を入手するために国立演芸場まで行く。今日は何もないらしくて正面玄関そのものがしまっている。オイオイ、切符を買いに来たというのに、と焦った。表の大劇場の切符売り場に行ってくれと書いてある。裏から表にいくのには相当な距離があるのだ。で、歩いていくと国立劇場の、正倉院もかくやと思われるデザイン通りの様子がよく分かるのである。たどり着いてみると切符売り場にはひとりの担当の男性がいるだけで、お客もいない。電話で予約してある旨をいうと「予約番号は」と聞かれる。その後にこの男性が御丁寧にも「失礼ですが、シルバーではありませんか?」と仰る。私はここのシルバー割引がてっきり60歳からと思ったので「惜しいんですが、わずかにたりませぬ」と申し上げた。いやいやお気遣いありがとうと云う意味だった。ところが家に帰って調べてみると国立演芸場でのシルバーと称する割引は「65歳より」と書いてある。つまり、彼には私はそう見えたということである。非常に遺憾ではあるが皆様のご意見は甘んじて受けるしかない。
 皇居のお堀に沿って桜田門方向にだらだらと下がっていく。桜の季節にこの辺をゆっくり歩いたことは何度もある。しかし、こうした冬晴れのもと、歩くのは初めて。この辺のお堀が一番景色がよいかも知れない。社会民主党の建物がより一層古びてきた様な気がする。ますます福島瑞穂弁護士が哀れに思えてくる。このまま銀座まで歩いてやろうかと思ったけれど、簡単に挫折して桜田門の駅へ降りる階段を下る。ホームに降りてみると、なんと誰もいないのである。できたばかりの頃のJR馬喰町のプラットフォームでもこんな案配だったけれど、全く人が見えない。記念に写真を撮ったほどである。
 有楽町で降りて「ビックカメラ」にはいる。平日の真っ昼間だというのにわんさか人がいる。三省堂に行って「アメリカ人ならだれでも知っている英語フレーズ4000」(小学館 2005)を捜すが在庫ゼロ。結局これは八重洲ブックセンターでも、ジュンク堂でも在庫はない様で、アマゾンに久しぶりに発注。これは面白い本である。仲御徒町の量販店に寄ってみるとようやくTwiningsのEarl Greyを発見。何時行っても品切れで買えなかったのでここ2ヵ月間ほど他のお茶を飲んでいた。ここよりこのお茶が安い店をこれまでに見たことがないのである。
 今日は9,814歩。家にたどり着くや小1時間寝る。

城達也

 テレビ朝日の「報道ステーション」が「ジェット・ストリーム」の城達也を取り上げた。1967年7月3日に始まったというあの番組は今年でもう40年にもなるのだそうだ。あの城達也の「なんと饒舌なことでしょう」は当時FM東海から放送されていたのだそうだ。つまり私が大学一年生の時に始まったということになる。FM東海は今の東海大学が試験放送をしていたので、FM東海という名前になっていた。大学の3年だったか4年の時に学生の音楽サークルを取り上げる番組があって友人たち4人でアコースティックで歌を唄いにいったことがある。私たちの次の収録は学習院大の長唄サークルだった。
 城達也は食道癌を患い、1994年12月30日の放送を最後に降板。録音の最後のことばは「それでは皆さん、さようなら」である。翌年の2月25日に他界する。どうしても、誰がやっても城達也のあの甘い、それでいて流暢な、なにか「モダン」なクールさをしっとりと聞かせてくれる世界は作れない。私たちの年代はとても大きな思いを抱えているかと考えると感謝である。