ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

やたら熱い授業なのに、こんな反応にもう嫌気

 一月以上前に書いたことなのだけれど、どの学生も登録することができるというジャンルに属する授業をうちの先生が主催している。昨年に引き続いての企画(授業というよりはこれは企画といった方がよい)である。
これまでNPO、あるいは防災ボランティア、若者とのワークキャンプ・ボランティア、元新聞社解説委員からボランティア等、必要だと思われることの支援に自ら一歩を踏み出すことで実行してきた人々の実に力溢れる話を次から次に聞いてきた。先生の人脈に感心する。
 先々週は予定していた方が来られなくなって、東大の先端研におられる全盲ろうの福島先生においでいただくことができた。9歳で失明、18歳で聴力を失った。母親がイライラぶつかった高校生の青年の手を取ったときに思いついた指点字。先生は人の話を指点字翻訳者の方が手の甲に打つ指点字で読みとっている。面白くしかし、実に重要な話を伺うことができた。
 日頃の授業ではそのすぐあとにリアクションを紙に書いてもらって回収する。すぐにコピーを取って関係者に配布する。しかし、今回だけは違う。福島先生は紙に書いても読みとることができない。E-mailでお送りするとテキストを点字に変換して流れる設備がいまやあるのだという。そこでこのリアクションをE-mailで提出するようにという指示を出した。それも3日後の午前0時までと指定して。宛先は私の学校のアドレスである。この授業に出席している学生の数はいつも準備する150枚の資料のはけかたからして、おおよそ130名前後と思われるのだが、その指定の期日までに送られてきたのはようやく75名だった。しかも、中には学部、学科、学年が書かれていないのは特記に値しないほどたくさんおり、中には学籍番号がないだけでなく、自分の名前すら書かれていないものがある。
 通常の私は、そんな奴のものは捨ててしまえ、と思う。大体自分で危険を回避できないのならばその危険に身をさらすことになっても当たり前だ、と思っているからだ。ところがここでは実に心根の優しい私は、いちいち返信を打って「これが足りない、あれが不明」とご案内をする。
 ところがである。それにすら反応がないのだ。しかも、E-mailは保存されるという感覚がない。平然と「書いたはずなのに、ないというなら送ります」といわんばかりの返信をよこす。返信をよこすくらいはまだましな方である。迷惑を掛ける、という感覚がない。こんな感覚の持ち主が、この類の授業に参加し、そのリアクションの中に感動しました!と書くのである。にわかには信じがたいことであるが、「コミュニケーションの大切さを思い知らされました」と書くのである。こちらは「言葉で人は信用できないということを思い知らされ」ているのである。
 しかし、もっと信じがたいことがこんなに平然と起こるとは思わなかった。半分近くの学生は何らかののっぴきならない事情で締め切りまでに送ることができなかったのだろうと翌週、出せなかった人はいまでも受け取るから送ってくれるように案内した。その時に締め切りを設けなかった私が明らかに悪いという指摘を彼らはするだろう。というのは2週間経ってもいまでもさみだれ式にボツ、ボツと学生番号も付かないメールがやってくるのだ。
 ほとんど1年生らしい学生たちはパソコンでメールなんてものを扱ったことはないのだ。携帯をこれほど駆使して、授業中にまで平然と駆使する学生がいざそれを授業で要求すると使ってこない。いや、授業中に携帯からメールを送ってきた学生は数名いた。学校があれだけパソコンを備え、無料講習を準備しても必要に迫られないのだからやるわけはない。福島先生のようにそれで送らないと反応を一人一人が見せることができない相手に対してすらこれくらいのものである。つまりそんな学生は学校で起こることには全く興味はないのではないかと疑う。この種の授業を履修しようとする学生がこうである。つまり、単なるイベントとして参加しているだけなのである。聴衆なんであって学生ではないのだ。しかも親が出した金である。人の金でいやいや来ているイベントなんてその中身がどれほど実は重要なメッセージを発していたとしても、どうでも良いのである。やっぱり130人も集まると中にはこんなのもいる、と割り切ろう。
 しかし、この種の人間に対して文句を言わなくなったなぁ、と自分が情けない。つまり大人としてきちんとした知識、スタンスを伝えることを放棄してしまうということだから。
 大人を舐めるな。