ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

結婚30周年記念日!

 先週末に22年間暮らした集合住宅から、歩いて10分ほどのところにできたこれまた集合住宅に引っ越した。

 この22年間、自分自身は2ヶ月半のアメリカでの語学研修、6ヶ月のアフリカ長期出張、3年半ほどのオーストラリア勤務で家を空けていたが、それにしても永年暮らした家から引っ越すのは感慨深いものがある。上の子が2歳の時に入居したわけだが、そこで生まれた下の子とともに子どもにとってはこれまでのフランチャイズだっただけにいろいろな思いがあってもおかしくはない。

 それにしてもこの間の住宅設備の進歩は大変なものがある。主玄関のオート・ロック・ドア、ケーブル・テレビのインターネット、お風呂場の洗濯物乾燥機能、床暖房、フローリング床・・それこそ知らないうちに便利なものができている。そのおかげで逆に高齢居住者にとっては勝手の分からない設備になりつつあることも確かだ。そこにつけいって高齢者の住む住宅を狙う輩が跋扈するらしい。わが家も数人の怪しい男がベルを押した。

 しかし、そんな便利なもの何一つなかったシドニーで暮らしていた家にとうていかなわない点は、あそこが大都市のホンの郊外でありながら緑に囲まれ、鳥や動物たちがふんだんにやってくる環境であったことだ。私たちはそうしたひとつひとつの「先進では全くない」が、「なんとも豊かな」環境を忘れ去ってしまった街に暮らしている。日本語がふんだんに通じる状況下であんな暮らしができるという状況は、多分この地球上には見つからないだろう。しかし、この年齢ではもう移住はできないし、いまや単なる長期滞在ビザとなってしまった「リタイアメント・ビザ」には多額な資金が必要で、これから長期に暮らす計画を立てることはできかねるが、どうにかしてもう一度尋ねてみたいと思う。そんな時に是非とも日本人の高齢者の方々の支援に力を発揮していきたいと思う。

 昨日も今日も朝は駅まで歩いた。15分かかる。乗換駅からバスで帰ってくると、やっぱりたっぷりと1時間である。駅まで歩き、JRでいく方が安い。

 近所の商店街が意外としっかりしていることに今更ながら気がついた。知人のあんみつやさんも、その2軒先の酒屋さんも頑張っていることは知っていたが、定食屋さんや洋食屋さん、ラーメン屋、花屋、電気屋、かつての商店街には不可欠だった商店が車の通りの激しい大通りに分断されていながらもしっかりと成り立っている。自分のすぐそばにこうして商店が残っていることがとても嬉しい。これはまさに文化だからだ。下町の良さはこんなところにあるのかもしれない。

 隣の県の実家のそばの商店街がまさに死に体状況にあり、それと同じことがこの国の多くの街に起きていることは、しっかりと認識していかなくてはならない。この状況を産み出してしまったのは1980年代後半からの再開発ブームのお先棒を担いだ行政と金融にあることは明確だ。その口車に乗った市民が愚かだったということもできるが、その市民たちはすでに気がついているか、あるいはこれからその子孫たちが遅きに失したことを気づくことになるのかは分からないが、文化を明確に失うということでしっぺ返しをすでに食らっている。

 しかし、自ら責任をとらずにここまで利害の一致した政権の後ろ盾をいまだに確保しながらあらがう金融機関の鉄面皮ぶりを市民が明確に指摘し続けていかなくてはならない。地方都市の郊外のそれまで豊かにみのる水田であったところに減反で不要の土地ができ、大型ショッピング・センターができると、それまであった駅前地域はあっという間に衰退していく。長野県内にはそんな街がいくらも存在する。私たちの国は自分たちの食糧を自らの手で生産することを止めるところから始めて、再開発と称する土建屋黄金時代を築き、その結果市民に密着してきた文化を投げ捨て否定してきた。この間市民は大規模資本のなすがままに追われてきた。明治維新からすでに100年を超える年月が流れ、アジア太平洋戦争が終わってからでも50年をゆうに超えた。それでも未だ市民の力というものが価値観にまで表れないのはなぜだろうか。それほどに徳川300年の力は大きな遺産となって残り続けているのだろうか。しかし、それとてたかだか3世紀に過ぎない。すると私たちの文化もあとたかだか250年くらいで本当に市民の価値観が確立される時がやってくるのだろうか。

 地域の時代、といわれだしてすでに何年も経つ。地域をフィールドにする研究の隆盛は驚くほどである。しかし、そのよって立つ基盤が真に市民主義に裏打ちされたものであることを確認していかなくてはならない。往々にして既成システムをクリティカルに見ることを忘れ、既成行政の側につくことによって自らのスタンスを見失うことが起こりかねないことをしっかりと自覚している必要がある。
 それにしても若者たちがその魔術に簡単にかかってしまう傾向には今更ながら悲しいものを感じる。