ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

あるネット上授業での私の発言

 古い経験話で恐縮。
 情報伝達の効率化という観点からいえば社内外への情報伝達の量、質はネットによって画期的に発達した。

しかし、その初期にはその効率化は社内組織内だけでは社員は便利になるが、投資金額がかさむだけで経営に寄与するかどうかという点は明確にならないという論理が社内上部を中心に、よくあるパターンとして蔓延し、その普及を阻害した。確かに投資効果として売り上げには直結しない。数字に表れてこないのである。

 しかし、今になって考えると、導入していなかったとしたら顧客とのスムースなコミュニケーションすら図られない状況になっていたはずである。これは所轄官庁(霞ヶ関)のIT化が先行したという事実が大きな影響力を発揮したといわなくてはならないと思われる。

 情報手段の転換における逡巡はテレックスからファックスへの移行の時にも現れたことでもある。ただあの時はアナログからアナログへの転換であったために設備投資額が絶対的に少なかったことがその移行を容易ならしめたということはできるだろうし、テキストだけでなく、不鮮明ながら図表を送ることができた効果は歴然としていた。

 一方、社内のコミュニケーションを中心にして考えると、総デジタル化を図らないと本来的な効果が現れないことから、人海戦術による解決をすぐに発想する旧態依然たる経営陣の思考体制の中では苦戦を強いられていたことは事実である。なにしろそれまでドラフターで描いていた図面をそのままデジタル発信はできなかったわけだからである。

 情報発信という力が組織に必要とされるという意味の中にはそれを公開する際に前提とする特定対象があるときと、そうでない全くの不特定多数に対して公開していく場合とがあり、自ずから意味が変わってくるし、公開される情報そのものの切り口も変わってくる。

 それを必要としている対象に対しては何ら躊躇なく公開していかなくてはならないし、また公開していく使命を、その情報を入手した人間は負っているというものもある。 例えば、銀行のディスクロージャーは本来的には企業としての金融機関の最初で最後、しかも最低限のモラルであったはずである。しかし、これは永年に亘ってないがしろにされてきた。銀行内にこの類の情報発信について正しい方向性を主張する動きがなかったことは、今考えてみるとその銀行だけの責任ではなく、所轄官庁の責任でもあり、一般市民の意識の問題でもあったといえる。

 同じように、大学にもその種の問題点は多々存在する。高等教育・研究機関である大学は、その一方、市場社会に存在する法人でもある。だから、当然の如く、集客力(つまり受験者数や入学者レベル)に悪影響がおよぶであろう情報は発信されにくい。尤もこの場合その対象である顧客が自らの権利を主張しにくい立場にあることと、最低4年間経てば必ずいなくなってしまう顧客であるという不思議な性格を持っているということは指摘しておかなくてはならない。
 その後のアフターサービスを要求されるものでもないし、ましてや表にでていたサンプルと違うものが提供されても、その損害賠償を請求されるようなことはほとんど発生せず、実際にこれまでそうした例を煩雑には聞いたこともない。こんな場合に発信されるものはいわゆる<おいしい話>ばかりになる。これは顧客の選択要素にはなったとしても本質的な情報とはいえない。高齢者施設における社協中心の評価事業もこの点で問題が残る。
 本来的に必要な情報とは、<おいしい話>ではなくて、むしろその裏に隠れている現実的に課題となる情報ではないだろうか。その点で利用者(大学であれば教員であり、学生)が実際に得て自らが発信する情報は本来的な情報になり得るのではないかと思う。もちろんそれが独善的、あるいはためにするものであったのでは何もならない。

 先日ポール・マッカートニーが私の大学に来て詩を朗読するという噂が流れた。しかし、これはオフィシャルには発信されなかった。なぜなら、事実そうであったようにドタキャンもあり得るわけであり、あるいはとんでもない数の人々が集まってしまって大混乱に陥ることが懸念されるわけだからである。この場合は発信するわけにはいかないことは明白となる。
 それにしても有用な情報はできるだけ多くの人に発信する、という使命はマスコミだけのものではないだろう。