ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

人は本当にいろいろだなぁ。

新幹線の運転手が寝てしまった事件があった。大騒ぎである。ATSの機能は確実に働くことになっているのだろうと、二次チェック機能は確実にあるのだろうと、分かってはいる。けれど、運転している人が寝込んでいたら走るべき時に停まるということは当然にあり得るわけで、それは確実に運行スケジュールに支障が出るわけである。

貨物列車が坂道で後ろから押す補助機関車の運転者が気を失ったために坂を上りきれず、停まってしまったという話もあったらしい。

この二つの事件には共通して運転手が睡眠時無呼吸症らしいという疑いがもたれているという。この話を聞いて、それまで睡眠時無呼吸症の話は聞いたことはもちろんあって、どこかのテレビが患者の睡眠中の様子を定点カメラで撮り続け、その呼吸が止まるところを見せたことを思いだした。その時の話では太っている人にその傾向があるといわれていた。

この話で思い当たることがある。ある学校でいくつかの授業で一緒になる学生の一人がひょっとするとこの症状なのではないか、ということである。この人はほぼ私と一緒になった授業で毎回居眠りをしていたのだ。その当時はきっとその人にとっては全く興味がない分野なんだろうけれど、なぜそれだったらその授業をとっているのだろうか、くらいにしか思わなかった。べちゃくちゃ喋り続ける学生に比べたらこちらにとってはなんのデメリットもない。しかし、久しぶりに「睡眠時無呼吸症」の話を聞いて、はたと膝を打った。ひょっとするとあの人もまたそんな症状に陥っていたのかも知れないのだ。非難すべき理由は何もないどころか、その症状に気付かせてあげなくてはならなかったのかも知れない。あの人のご家族はきっとそんな昼間の状況をご存じないのだろうから、疑うこともないだろう。
と、するとそんな状況は昼間周囲にいる仲間の方が分かる可能性が高いということになる。

これは軽い神経症精神疾患でも同じ可能性がある。例えば、家族にとってはいつもそんな話をしていて、もう慣れっこになっていて別段違和感を感じることはないのだけれど、他人が聞くと「あれ、大丈夫かなぁ」という状況に遭遇することこともある。しかし、これも周囲の他人の方が分かる可能性は高いが、ご家族にその懸念を伝える、という行為は大変に難しい。余計な中傷と映る場合がほとんどということになるだろう。だからよけいに、その状況に気付いていても気がついていない風を装うことになる。

これは職場でも良く遭遇した。普通の程度とは思えない無神経さや、普通とは思えないほどの神経質さに振り回されたことも一度や二度ではなかった。

ところで、社会人経験を持つ学生の数は各大学でも徐々に増え続けているらしい。しかし、大学に戻ってくる社会人経験者のその動機は人それぞれである。はっきりと「私はカルチャー・センターの代わりに来ているんだ」と仰る方もいるし、「時間ができたから今までの経験を突き止めようとしてきた」という人。そうかと思えばこれまでに経験していなかった分野の仕事に転身を図ろうとしてという人もいる。あるいは今でも専門職として働いているが、これまで疑問であったものを明確にしてより専門性を深めてまた戻ろうとしている人もいる。だから、授業に対する取り組み方もいろいろである。

例えば、私はその授業の中で抱える疑問をその場で明確にしていこうとしてきた。それは同じような疑問を抱える人にとって参考になるだろうという気持ちもあったし、退職後すぐに入った大学ではそれが当たり前で、授業中に学生たちと教員の間で議論になることもしばしばだったからである。
それが大学の授業であるべきだと思ってきた。しかし、ある現役学生にこれを話したところ、自分ひとりの疑問の解明によって他の学生たちは教員から得られるはずであった情報を得る機会を失ってしまったのだというのである。絶句だった。授業によって情報を得ようとするのか、すでに持っている情報をもとに疑問を解明しようとする場であるのか、という認識の違いは大きい。教員から授業で得ることが大学に在籍する上での唯一の情報入手だと考えるのだとするとあまりにも悲しいと私は考えてしまう。方向性を探す上で、考えの是非を検証する上で、必要となるのが大学の教員なのだと思っているのだが、そこにはかなり大きな開きがある。

しかも、ある社会人経験をもつ学生からは「大学は現役学生のものであって、社会人学生は彼らより前に出るべきではなく、彼らの活動を見守っているべきであって、求められて初めて出ていくべきだ」という考えを聞いた。

これは私が大学に戻ってくる上での考えとは全く反対である。私は現役の学生であろうと、社会人を経験してきた歳の離れた学生であろうとその間に立場の違いがあるべきだとは思ったことがないし、だからこそまともに真剣に対峙すべきだという考えである。

それぞれ、その人個人個人がそれまで引きずってきた経験、体験の積み重ねが目に見えないほどの厚さであったとしても堆積し、それがその人の考え方を作り出している。だから、倫理観をも含むそれぞれの価値観が大きく変わっていてもおかしくはない。

こうしてみてくると、人間は絶対的に、そして自動的に判断するべき立場にいる人は一人もいないということになる。

授業中にいつも眠りこける学生だって、「だらしがない・・」という状況なのか、あるいは医者に相談することを勧めるべきなのか、すぐには判断ができない。

逆をいえば、私がそう考えて実行している授業の場における疑問の解明、若い現役の学生と同じ立場にいて、前のめりになって活動し、情報を得、情報を発信することに対しても、誰もそれを否定することもできないということでもある。

それにしても、人は本当にいろいろだ。