ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

「ありがとうね」

 母が他界してから初めて日曜日の礼拝に参列した。実は私は聖公会の信者である。日本にはクリスチャンは全人口の1%も存在しない。だから、クリスチャンだと吐露すると必ずその反応は未だに非国民的目線である(あ、そりゃ私が自分で持っている思いこみかもしれないな)。実はとても久しぶりの主日礼拝であった。なにしろ昨年のクリスマス礼拝から参加していなかったんだから。うちの教会の牧師は現在闘病中である。未だ執事の先生がそのお留守をつとめている。で、その執事の先生がいつも礼拝の後に「初めての方はおられますか?」と聞く。今日は2-3人だった。時間があったせいか「久しぶりの方がおられますか?」と聞いてご自分で「どのくらいの期間をひさしぶりというのかはいろいろですが・・」といわれた。むろん私は手を挙げなかった。
 聖餐式のパン(正確にはあれはパンではないが)と赤葡萄酒をいただいて席に戻り感謝の祈りを無言のうちにすると、(もちろん自分で描いていたわけだけれど)母親がとてもとても穏やかなにっこりした顔でどこかに(私の心の中では行くべきところ)入ろうとしながら私を見て「ありがとうね」というところを思い描き、涙が出た。悲しい涙ではない。自分でそれは演出しているんだといわれても良いのだけれど、自分で勝手に自分を免罪にしているといわれても良いのだけれど、なんだか私と母のけじめになったのかもしれない。安心の涙だといわせてもらいたい。
 私は母だけでなく、もちろん父からもいろいろなことをしてもらってきた。だけれども何も返してはいない。返すことができなかったのではなくて、返さないのは親孝行なんだとうそぶいていた。すぐ身近な人が「うちの娘にはあれだけのことをしてきたのに、あの子は私に何も返そうとしない」というのを聞いてびっくりした。えっ?!親って見返りなんて求めないんじゃないの?といった。私は「放蕩息子」を迎える父親の話を聖書の中に最初に見つけた時、なんて偽善者の父親なんだと思ったけれど、親子はきっとそうあるんだろうなぁと納得していたのだった。
 人間は自分が思うように動き、考えることができる間は強い。何でもできると思う。そうでなくなったとき、その救いをきっと無意識のうちにどこかに求めているはずだ。しかし、そうした親子の愚痴を言える人は本当に幸せだ。いいたくてもいえない人は何人もいる。