ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

実家へ行く

 実家にお線香を上げにいった。姐夫婦と久しぶりに話す。あれもこれもやっていて、忙しそうにしている夫婦である。隣の家の新築が完成していた。ゆっくり話をしていたら、家に近づくと既に夜8時に近づいていて腹が減り、近所で外食をしようとしたら、日曜日だからほとんどが開いていない。中華そば屋が開いていたので、私は肉野菜炒め定食、連れ合いはもやしそばを食べる。家に到着すると眠くて、あっという間に寝てしまう。眼が覚めると夜中。
私の実家は横浜市にあるが、至近の私鉄の駅が高架だったのにそれはそれは深ぁ〜い地の底に駅が潜ってしまって、すっかり駅の廻りの景観が変わってしまっている。


 写真の商店街が実家の直ぐそばにある商店街で昔は夕方ともなると通りの両側に買い物の主婦がワァワァとしていたものであった。この日はたまたま日曜日だからよけいにシャッターだらけになっているのだけれども、そうさなぁ、昔の2割くらいは店が成り立っているといっても良いだろうか。昔からあるのは家具屋、学校の制服なんかを扱っている洋品屋。薬屋(これなんて時間の問題だろうになぁ)。魚や(昔日の感なし)。凍り付いているようなオモチャ屋。クリーニング屋。床屋。それくらいのものだろうか。かつては市場と呼ばれた多店舗集合建物(戦後はあっちにもこっちにもこんな集合体があったものだ)はとっくにマンションになっちまった。あそこに肉屋も魚屋も、仕出し屋も、同級生の親がやっている荒物屋さんも入っていた。そういえば、交番の横には乾物屋さんもあったもんだ。


八百屋の店先では大きな樽の中に里芋と水を少々を放り込んで、そこに杉の垂木をXにしたものを突っ込んで、若い衆がそれをガッサン、ガッサンと廻すと、あら不思議、里芋の皮がむけていた。そんな音やら、魚屋の店先で「鰯を十匹頂戴!」といわれた若い衆が「ひとい、ひとい、ひとい、ふたえ、ふたえ・・・・」と数える声がした。そして店先の小銭はゴムひもでぶら下げた竹ざるの中に入っていたし、その横には茶色い蠅取り紙がぶら下がっていた。包み紙はといえば、プラスティック・バッグなんてものがあるわけじゃないから、みんなおかみさんたちが竹で編んだ買い物籠を抱えていた。店でくるんでくれるのは新聞紙だし、油紙だったり、経木だったりした。味噌もそんなわけで、100匁といってくるんでもらって持って帰ってきた。そして壺みたいなものやホーロー引きのような容器に入れた。そうそう、そんな話をしていて想い出したのは、うどんや蕎麦の玉も乾物屋さんの店頭にあるガラスの窓のようなふたの乗ったバットに入ったうどん玉を経木につつんでもらって持って帰ったものだった。乾麺であったのは素麺か冷や麦くらいだったのだろうか。


この写真の角に裁縫道具の小さなお店があった。昔でいえば小間物やさんだったのかも知れない。そこに生地に印を付けるチャコ(なんでこんな人の名前みたいな名前なんだろう)を買ってきて、といわれてお金をもらい買い物に行ったことを想い出す。チャコって一体なんだろうと不思議だった。


 この商店街だけではないかも知れないが、昔はやたら和菓子屋さんがあった。この商店街は約1kmくらい続いていたんだろうと思うけれど、知っているだけで、4軒も和菓子屋さんがあったのは多くないだろうか。しかし、知っている「駄菓子屋」さんは一軒だけだった。おふくろの財布からかすめた金を握りしめて駄菓子屋の奥の鉄板で「おばさんお好み焼き5拾円!」といった時は贅沢だぁ〜!と思った。何しろどんぶり分のお好み焼きをひとりで焼いて食った。それに味をしめて、おふくろの財布から何回もちょろまかしたら、最後は自分の小銭入れがぱんぱんになって、とうとう見つかった。悪い奴だったのだ。


 そのころ、うちの近所にプロ野球選手が住んでいて、100坪くらいある大きな敷地に家を建てていた。時々塀の隙間から中を覗くと居るのが見え、玄関のボタンを押して「サイン下さい!」といった。快くくれる人だった。この人の連続出場記録を破ったのが、鉄人である。一塁手だったくらいだから、大きな人で、歩いていると目立った。この人の背番号が23番だったが、私が好きな背番号23番は阪神吉田義男だったものだから、どうもしっくり来なかった。


 私は野球も全くヘタックソだったけれど、格好からはいるところは今と全く変わらない鼻持ちのならないガキだった。ある日、今は亡き幼友達と(ったって、その時は多分小学校三年生くらい)二人で、野球のグローブとバットを持って駅前を歩いていた。そこに今だったら絶対怪しくて子どもたちは「わぁ〜!」といって走って逃げてしまうだろうけれども、スクーター(多分あの当時のことだからラビットー富士重工に違いない)に二人乗りした男が声をかける。「君たちさぁ、野球のユニフォーム持ってる?」と聞くのである。

 今だったらそこいら中にリトルリーグみたいなチームがあって、そんな格好して、念の入ったことにヘルメットなんぞを被りやがって、判で押したようにガキ用のマウンテン・バイクに乗った悪ガキがごまんと通りかかる。しかし、当時、そんな格好している奴がいるわけがない。ところが格好からはいる私としては、運動会で汚くなった体操用のシャツ(これがごく普通の状況として、野球のユニフォームな形をしたものだった)の背中におふくろの裁縫で余った布を数字に切って縫いつけ、胸にもマークを縫いつけていた。小学校三年の時にすでに針を使っていたということである。家庭科なんて要らないんだって。下はと見れば、当時私たちは略称「トレパン」、フルネームでいうと「トレーニング・パンツ」と呼んでいた真っ白の木綿の体操用のズボンを穿いていたものだった。下には白い木綿の靴下を穿き、オヤジの履き古してかかとに穴の開いた黒い靴下のつま先とかかとを切り落としたものをそのトレパンの上から穿くと、あら不思議、あたかも野球のユニフォームの完成である。今から考えると涙ぐましいくらいのものではあるが、当時の小学校三年のガキにとっては得意満面である。それでいて打てないんだから情けない。


 そうそう!それで、その二人の男であるが、私はそのユニフォームを頭に浮かべて、「あぁ、持っていますけれど・・」と答える。今の子どもだったら、「持ってるよ!」というところだけれども、当時は大人に対しては、「ため口」では喋りはしなかったのである。ところが、その時一緒にいた私の幼友達はそういうことに興味がなかった。だけれども野球は私よりは巧かった。しかし、二人の共通の友人の「のぼる」君が私のものよりももっとちゃんとしたものを持っているのを知っていた。


 ところで、彼らのその質問の意図である。宣伝用のフィルムを撮るんだけれど、そんな子どもを二人捜しているというのだ。そこで、その「のぼる」君のうちまで行くと、彼は風邪を引いて寝ているというのだ。その二人の男が「のぼる」君のお母さんとどんな話をして口説いたのか知らないが、結局ユニフォームを着た「のぼる」君と私は近所の中学校のグランドに勇躍として立つ。彼がバッターで、私はキャッチャーである。時既に午後遅かったような記憶で、私と「のぼる」君は西を向いている。カメラ(どんなものだったかすら覚えていない)の横にスクーターの男のひとりが立っていてそこからボールを投げる。「のぼる」君は打っても良いといわれていたのに、なぜか空振りをした。私のグラブにピシッとボールが入った。野球のヘタックソな私が、バッターに空振りされてそれでもしっかりとボールをキャッチしている自分に感動した。何回かそんなことをして終わった。


 終わった時に僕と「のぼる」君は百円ずつもらった。つまりギャラが百円である。さて、それからどうなるのか、である。約束通りに放映される時に家に電話が掛かってきた。直ぐに流れるよと。なんと薬の宣伝だったのだ。ポポンエスのような保健薬だった。これで、パパも、ママも、そして坊やも(ここで私と「のぼる」君らしい二人が映る)元気です!の様なコピー。しかし、誰も私と「のぼる」君がテレビのコマーシャルに出演したことに気付いてくれなかった。何しろ私はキャッチャーなので、キャッチャー・マスクを被っていたのだった。なぜか知らないが、わが家には子ども用のキャッチャーマスクがあったのだ。あんなものを被っていたのでは誰だか全く分からないのだ。あの百円で軟球は買えなかったような気がするが、発泡性のゴムで作ったボールを買ったことを覚えている。あれからすでに半世紀にならんとす。