ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

殺してしまうのかぁ・・・・・

 不満があったら相手を殺してしまう、抹殺してしまう、完膚無きまでに攻撃してしまう、ここまで来てしまうのはどうしてなんだろうか。もちろん私だって、ひょっとするとこの人たちに私はウェルカムされていない、と感じたら面白くはない。面白くないどころか、すっかり落ち込む。この自分の全てを否定されたと思ってしまう傾向がないとは云えない。だから、そうは自分で思いこまないようにしようとする。それで踏みとどまる。挙げ句に一晩呑みながらみんなでワァワァ騒いだりするともうそんなことはどうでもいいや、となる。これがストレスを解消すると云うことなのかも知れない。つまり私のような単純な人間は、そんな出来事、そんな瞬間、そんな事態・状況を忘れてしまうのである。これにはプラスとマイナスがある。そんなものを忘れてしまって深刻にならなくて済むのと同時にその出来事で学ぶことのできたことまで忘れてしまうのである。つまりいつまで経っても進歩しない。だからまた同じことをしでかす。
 実をいうと、どんなに友人や知人が私に面と向かって「お前のここは良いよぉ〜」といってくれても、いやいや、それはやっぱり社交辞令というものだろうと思う傾向にある。これはこれまでの人生が大きく影響しているんだろう。
 だけれども、その相手とどんなことがあったにしろ、「殺す」「死に至らしめる」ということがそんなに簡単に実行されたり、自らをそこへ追いやるという観念、感覚、思想は一体なんだろうか。
 人のことは本当に云えないのだけれども、人との対話、人との価値観のぶつかり合い、その処理の仕方という肌感覚が鍛えられるチャンスがない、ということだろうか。人とぶつかる、それも年齢や力関係の違いを含んだぶつかり合いというようなものがなさ過ぎるということもひとつの要素かも知れない。
 私が以前の仕事を辞めてからとても気になり続けているのは今の青少年と大人(それが家族であろうと学校の先生であろうと)との間に存在するはずの建前上の仕切りのあまりの低さというか、いい加減さなのである。しかも一度身につけたいい加減さというものは決してそう簡単には払拭できないという大きな問題があると思う。ちゃんとやってみようとするとそれをその場で演技しなくてはならず、その面倒くささがその後のキャッチアップに妨げとなる傾向が強い。だから、今の若者たちは自分には現場の対応力があると思っていても、実際にはトレーニングする場がないからそうはやっていかれない。
 だからこそ雇用側は問題があってはいけないからマニュアルを作り、その通りにやらせることによって責任から逃れる。たったひとつしか注文しないのに「ご注文を繰り返させていただきます。オムレツをおひとつ。以上でよろしかったでしょうか」なのだ。しかも、そのオムレツを持ってきてからも「オムレツでございます。ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と来る。お前、その行為はちょっと人間関係の中で不自然だとは思わないのかぁ?だけれども雇う方も現場ではそろそろそうして育てられた層がやっているからなんら不思議はなかったりする。
 私も時として接触する相手との間に妙な違和感を感じることがある。そのカウンターパートとの間に共有できない眼に見えないバリアを発見するのである。そんな時は無理してそのバリアを乗り越えようとはしない。それを乗り越えるのは、どうしてもその人にそのバリアの構築の仕方はその人にとってプラスにならないし、第三者に対して理不尽であると判断できた時でしかない。
 家族、あるいはいつでもくっついたり離れたりできない単位では、それを割り切って選択するということができないところに大きな落とし穴がある。しかし、今だからこそ云えるのだけれども、どうしても割り切らざるを得なくなったら、独立すればよいのである。出ていけばいいのである。なんだかんだ理由をつけて私は家族から離れることをしなかった。
 だから学校を卒業して社会人になった時に地方の工場勤務になって独身寮で暮らしはじめたのは自分にとって本当に良かったと、今では思う。10数年前に死んだ父がその当時私に手紙を書いてきて、その中に「お前と俺はお前が高校生の頃からずっと断絶だった」と吐露していたことを想い出す。あれだって、私がひとり住まいをしていなかったら彼は多分一生あの言葉を私の前で出さなかったかも知れない。その証拠にあれ以降からは私に手紙を書いたことがない。確かに父とは高校生の頃、私がベトナムの状況に憤りを激しく感じていた時だったと思うけれど、その直情的な価値観を彼が揶揄して以来、彼の価値観を卑下して口をきかなかった。コマーシャリズムに毒された無知蒙昧の輩の極地といって。母がそこをカバーしていた。しかし、私の場合は特別かも知れない。いや、偶然であったのかも知れない。それは普遍的解決方法ではないかも知れない。尤も人の感覚、感情には普遍的なものなんてあり得ないのだけれども。
 もう高校生なら良いじゃないか。家を出よう。そしてまた学校に戻りたくなったら戻る。そうしたいったり来たりできる社会に変えていくしかない。以前の日本のように、ただ我慢していさえすればどうにかなったという社会的仕組みはもうとっくに終わってしまったのだから。
 世の中なんてうまくいっていないのはお前だけじゃないよ。あいつもこいつもうまくいってそうな顔してそんなことを云っているけれど、そんなのブラフも良いところだ。「金儲けて何が悪い?」といっている奴は可哀想に人間の根源を分かる方向だけには疎い、ということを証明しているにすぎない。
 こんなことを云うとかならず金のないことを人の所為にして、成功者のそれを妬んでいるだけだという人もいるだろう。それはそれでその人の自由だが、その人が社会のエクスクルージョンのあっちとこっちが誰が決めたどんな基準によるものかも分かっちゃいないわけだからいつの間にかこっちにいたりすることが起きる。だから、油断しない方がよいけれど、そうなっちゃったらそうなっちゃったで、またやり直しに取り組みはじめればよいだけなのだ。それをあぁ、もうダメだ、もう全てが終わりだと判断するのは、はっきりいってもったいない。
 人間はどうせ死ぬ。誰もそれから逃れられない。だからとことん可能性を捜して暮らした方が面白い。なにもかも、どんな小さなものでもそこにある可能性を放り出してしまうと曲げた膝はなかなか伸ばす力を得るのが容易でなくなる。
 ゲーム機を捨てよ、街に出よう