ほぼ足りてまだ欲 その先

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BS特集「日本と戦った日系人〜GHQ通訳・苦悩の歳月〜」前編

 多分BS海外ドキュメンタリーで放送されたものの再放送かと思う。前回8月の放送時には後編の、それも後半程度しか見ていない。今回の再放送も偶然に見たもので、こうしたものを一度にまとめてちゃんと見てみたい。主人公は1920年シアトル生まれのハリー・フクハラである。
 彼は事業家の父のもとに生まれた4人兄弟の次男で、13歳の時にその父が逝去し、母親の郷里である広島へ下の二人の弟とともに帰国したという。はじまりを見逃したので不明確だが、多分長男は当時の二世によく見られたように日本の教育を受けさせようと日本に一足早く帰っていたのではないだろうか。後に国家反逆罪に問われ、服役した川北友彌もフクハラの兄と同じように勉学のために日本に来ていた。ハリー・フクハラは日本に来た時に既に中学生年齢に達していたので、日本の学校にはあまりなじめなかったようだ。5年後に家族を残して彼ひとりだけがやはり米国に戻って行く。白人家庭でバス・ボーイをしていたそうだ。戦争が勃発してハリーも他の日系人、あるいは日系人と結婚した人たちと同じように、強制収容所に収容される。彼はアリゾナ州のヒラ・リバー[Gila River]にできた強制収容所に収容された。この収容所には13,348名の日系人が収容されたという記録がある。二世の多くの青年たちのように彼もまた志願することになる。一説によると6,000人が任務に就いたと云われるMilitary Intelligence Service(陸軍情報部日本語学兵士)になるためのMilitary Intelligence Service Language Schoolの三期生となる。フィリッピンで日本人の捕虜を尋問し、相手の状況、兵站の様子等を引き出す。しかし、敵対する日本軍と区別の付かない、しかも絶対数の少ない日系兵士は疎んじられる。日本兵を捕虜なんかにしないと豪語されるが、彼らの尋問が如何に重要かを説得する毎日だったという。マニラに転任させられると今度は連合軍の日本本土上陸作戦への従軍を命令される。その任務からははずして欲しいと要望したが、大佐からは却下された。上陸に備えるには日系人兵士が少なかった。
 そのうちに母、兄弟がいるはずの広島に新型爆弾が落とされたと聴き、あぁ、これで上陸作戦に従軍しなくて済むと思ったのもつかの間、その広島は新型爆弾で壊滅したと聞く。何も残されていないのならば、そのまま米国へ帰ろうと思ったという。東京駅からほど近い郵船ビルにGHQの翻訳通訳部が構えられる。
 ビルマでフクハラと同じようにMISとして通訳に従軍し、東京でマッカーサー元帥の通訳を務めたLt. Kan Tagamiがいた。彼も5歳から7年間広島に育った経験を持つ。彼は1946年12月に赴任。1948年にマッカーサーのメッセージを伝えるために皇居に赴き天皇と会見している。時あたかも東京裁判結審後、つまり4月以降ということになるが、連合各国から天皇の戦争責任が語られる中でマッカーサーは使者として彼を送ったという。タガミは自身のエッセーの中では触れていないようだけれど(そして私も録画もしていないまま、テレビ放送を見ての記憶でいっているからかなりいい加減だけれど)、「内外のメディア報道について心配をしています、陛下はご自分でお決めにならねばなりません、しかし私は陛下を支援します」というようなメッセージだったようである。豪州の新聞が天皇と独占インタビューをしていて、強い調子で書いていたというバック・グラウンドもある。当時のタガミの上司ローレンス・バンカーを知る当時のマッカーサーの幕僚だった94歳のフランク・サクトンの証言は「マッカーサー天皇が自分から決意して欲しいと思っていた。しかし、新憲法ができて天皇は国会に従うことになったから、今更退位する必要がなくなり、彼には個人的な威信だけが残った」というものである。
 ここから先もタガミはエッセーにも書いているが、天皇がタガミに個人的な話をしたという。両親は日本の生まれかと聞かれたので「広島です」というと天皇は「おお!」といったのだそうだ。そして「二世の方々は日米間に大きく貢献しました。私はその貢献に対してありがたく思っています」と続けられたのだそうだ。タガミがきちんと日本語でそれを覚えていると再現した。後編の再放送は7日(木)の午前10:10から。
 二世の従軍者のオーラルヒストリーは登録することが必要だが、こちらで見ることができる。Kan Tagamiのインタビュー(1999年)もここに置かれている。番組で放映されたハワイMIS戦友会が撮った頃の方が元気に語っている。
 さて、私は豪州の新聞が独占で行った昭和天皇とのインタビューをウェブ上で捜しているが今の所そのものにぴたりとはぶつからない。そんなことをしているうちにキャンベラのWar Memorialに設置されているAustralia-Japan Research Project (AJRP)のサイトに久しぶりにたどり着く。すると今年の日豪交流年企画として『鉄条網に掛かる毛布 —カウラ捕虜収容所脱走事件とその後—』というタイトルの書籍が完成し、公開されていることを知る。このブックレットはスティーブ・ブラード著、田村恵子(豪州戦争記念館)訳の対訳版で「オーストラリア戦争記念館ブックショップや、カウラ日本庭園と文化センター、カウラ旅行者案内所、オーストラリア戦争記念館のオンラインショップなどで$9.95で購入することができる(サイトでの案内)」が、豪州の政府機関らしく、もちろんpdfフォーマットでダウンロードもこちらで可能である。この著者、そして訳者のコンビは先に『過酷なる岸辺から−オーストラリアと日本のニューギニア戦』を完成させており、これは章ごとにわけられてはいるがダウンロード可能である。
 以前にも書いた記憶があるが田村恵子氏はAustralia National Uni.で博士号を取得した研究者で豪州における戦争花嫁の方々の支援にも尽力されている方である。