ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

そんなに買ってどうするの

 古本市に行ったり、月の初めに本屋に赴いて薄い木綿のトートバッグを重そうにぶらんぶらんさせながら帰ってくると必ずそんなことをいわれている。そりゃいわれてもしょうがないだろうなとは思う。自分の読むペースを遥かに超えた状況で紙印刷物体を狭い部屋に押し込んでいるのだ。そして、時には机の上で拡げてみてどこかで見たような気がすると思い立ち、書棚を点検すると案ずるかな、全く同じ本、あるいはそれの文庫版をすでに抱えていたりするのであるからそんな言葉を家人が発するのも無理はあるまい。その上、ざっと見回しただけで途中までしか読んでいない書籍の山が50冊は超えているだろうという状態である。本というものは近年特にそうなんだけれど、書店で入手できる寿命がやたらと短い。店頭から姿を消してからその本を捜そうとすると古本に頼るしかない。そのために古本市に出かける。目標としている本が見つかったら勿論だけれども、そうでなくてもそのジャンルに近いものを見つけたら、迷わず籠に入れておく。そうしておかないと次に出会える日がいつ来るのか、なんてことは誰にも分からない。それでも困るのは、なぜか高価だった本は古本屋にもなかなか出回ってこない。そうしたものは図書館で借りるしかないのだ。
 地元の公設図書館は専門的に深いものはあまり興味がないというか置いておくわけにいかない。そこに行くと大学の図書館というのはほぼ必要なものは確実に見つかる。どこの大学でも図書館のOPACは公開されているのだから検索することは誰でも可能である。しかし、問題はその大学の図書館がどこまで公開されているのか、という点である。閲覧室自体が公開されていた大学の図書館もひと頃は結構あったのだけれど、どんどん閉鎖的になりつつあるのではないだろうか。
 私の母校には図書館が幾つもある。オールマイティー図書館は二つのキャンパスにそれぞれあるし、それぞれの専門図書はそれぞれの専門図書館で持っている。ふたつ目のキャンパスの図書館は2005年度までは全くのフリーな状態になっていた。地域の人々に、という名目で図書館への入場についてもフリーになっていた。そのために試験シーズンには地域の方々にはご遠慮頂いて、学生を優先使用させるということになっていた。しかし、実際には試験準備のために机を使う、ということのためであり、文献貸し出しを制限する程の意味があるのかはデーターが公開されるわけではないので分からない。中学生が夜に出入りして不穏な雰囲気をかもしたこともある。うるさいと注意し続ければよいわけだけれども、完全にそれを排除できるかどうかという点で不安が残り、責任を持てないとでも判断したのか、翌年からは一切登録者以外の入場ができなくなった。テロ予防という名目ですべからくどんな制限を受けても我慢するべきだという風潮そのものである。これってどこかで聴いた論理そのものなのである。とかくこうした施設は「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」のである。
 話は母校の図書館に対するいつもの憤懣になってしまったけれど、図書館に頼るしかないのは、私の場合はほぼ高価な書籍の場合だといっても良いかも知れない。はっきりいって2500円を超えるとその本を手にとって、う・・んと唸りながらしばしの間ためつすがめつするのである。
 夜になって本当に天気は荒れ模様。またどこかで船が沈んでいるといっていた。それにしてもいくら4km弱のコースとはいえ、八甲田でこの天気図を見て出発する気には私だったらならないけれどなぁ。ガイドがいても雪崩にはかなわない。