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「新編 靖国神社問題資料集」つづき

 昨日の午後出かけるまでネット上でこれに関する記事をできるだけ読みたいと思ってGoogleを検索し続けたけれど、なぜか産経の記事が引っかからなかった。今朝になってみるといくつかの産経の記事を見ることができた。ところが、それらの記事のアップ時間を見ると29日(木)午前になっている。なぜそうした記事を見つけることができなかったのかちょっと残念だった。その産経の記事をすぐに見失ってしまうからここにアップしよう。

A級合祀、昭和44年提示 靖国神社、厚生省と綿密協議 (The Sankei Shimbun Web-Site 2007/03/29 03:06)
 国立国会図書館は28日、靖国神社が提供した内部資料や、これまで非公開だった中曽根内閣当時の「閣僚の靖国神社参拝に関する懇談会」(靖国懇)の議事録など、靖国神社に関する資料集を公表した。靖国神社が昭和44年、「A級戦犯」を「合祀(ごうし)可」とする見解を示す文書を厚生省に提示するなど、戦後、両者が一体となり合祀を進めてきた過程が明らかになった。
 旧陸、海軍両省の業務を引き継いだ厚生省援護局と靖国神社は、「合祀基準に関する打合会」などを頻繁に開き協議。この過程で厚生省は41年2月8日、A級戦犯を含む合祀の名簿である「戦争裁判関係死没者に関する祭神名票」を靖国神社に送付した。
 これを受け44年1月31日、靖国神社社務所で開かれた会合で神社側は、厚生省との「再確認事項」として「法務死没者」の「A級(12名)」と「内地未決死没者(10名)」を「合祀可」とすることを提示した。ただ「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける」とし、世論の動向を気遣っていたことをうかがわせた。
 その後、靖国神社は45年、総代会でA級戦犯の合祀を決定する。実際に合祀したのは53年10月で、その9年前に一定の結論に達していたことになる。合祀されたA級戦犯が14人となったのは、東京裁判の未決勾留中に死亡した松岡洋右元外相と海軍の永野修身軍令部総長が「内地未決死没者」に含まれているためとみられる。
 BC級戦犯の合祀についても慎重に検討が進められたことも分かった。33年4月9日の打合会(第4回)で厚生省は「個別審議して、差し支えない程度で、しかも目立たないよう合祀に入れてはいかが」と提案。同年9月12日の打合会(第7回)でも「全部同時に合祀することは種々困難もあることであるから、まず外地刑死者を目立たない範囲で了承してほしい」と、BC級戦犯の合祀を先に決定するよう打診した。
 36年8月15日、靖国神社は「終戦後における合祀審議の状況」の中で、A級戦犯は「保留」とし、BC級戦犯のうち外地処刑者は「合祀」、内地処刑者は「合祀予定」とした。
 資料集は「新編靖国神社問題資料集」で、A4判1200ページ。資料集は非売品で、5月の連休をめどに国会図書館のホームページ(HP)に公開される予定。
合祀判断 慎重さ裏付け
 国立国会図書館が公表した「新編靖国神社問題資料集」は、戦後、国(厚生省)と靖国神社が一体となって「A級戦犯」を含む戦没者、戦犯刑死者の合祀に努力してきたことを裏付けるものだ。
 靖国神社が全面的ともいえる協力で提供した内部資料は、合祀基準の形成の過程、とりわけこれまで判明していなかった戦前の合祀基準も含まれており、日本の戦没者追悼の歴史を検証する上で一級の資料といえる。
 敗戦に伴い陸、海軍両省は廃止され、靖国神社宗教法人化された。陸海軍両省の業務を継承した厚生省援護局が、靖国神社と協力して戦没者の合祀作業を進めたのは、戦没者を認定する能力が厚生省にしかない以上、当然のことだ。厚生省が戦没者の「祭神名票」を靖国神社へ送付してはじめて、合祀が行われていた。これを知りながら「政教分離に反する」と批判する向きがあるが、戦没者合祀をやめよと言うに等しい。
 厚生省と靖国神社が戦後、綿密な協議を重ね合祀を進めた事実は、戦没者や連合国の戦争裁判によって処刑された人々への慰霊をまっとうする責任を、当時の政府が果たしていたことを意味する。
 靖国神社が「新聞報道関係の取り扱いいかんで、その国民的反響ははなはだ重要な問題として考えなければならない」(昭和33年9月12日)としたように、協議は時間をかけ慎重に進められたことがうかがわれる。ただ、今回の資料集では、なぜ53年の時点でA級戦犯の合祀に踏み切ったかその理由までは示されていない。(榊原智)

 注目すべきは後半にあり、厚生省が靖国とともに合祀作業(靖国に対して主導してとは書いていないところも注目すべきだとは思う)をしたのは陸海軍がなくなったのだから当然なんだとし、従って厚生省が作業をしなければ靖国はその後の合祀を進められなくなってしまうはずだったのだからこうした活動は当然なのだとしているところだろう。この辺の考え方はもう既に基本的スタンスの部分での足の踏み場所が全く違っているので、これから先の議論をしたとしても、それぞれは水掛け論にしかなりえないだろうなぁという絶望的な展開が容易に想像できてしまう。
 私はまだ様々な資料を探し続ける途上にいるが、戦勝国による敗戦国の国家活動に対する判定が極東軍事裁判を初めとする様々な裁判だったとすると、では、私たちは私たち自身の国家が行ってきた活動がどの様なものだったのか、それがどのようなことを起こしていたのか、そしてどの様にそれを総括してきたのかと考えると、地球規模連帯的にいえばそれは全くなされてはいなくて、列島内に閉鎖された、ある種のリングロープに囲まれた場所の中での総括に過ぎないことをうすうす感じる。しかもそれはどんどん狭まり、菱形をしたステージに固定されつつある。
 ここにも「法務死」という言葉が出てきた。
 この産経の記事に使われる年号は「昭和」元号が用いられている。日本の新聞だから当たり前、とするところなのかも知れないけれど、もう西暦を使わないと私程度の力では混乱してしまって困る。日本の運転免許は勿論元号で有効期間が書かれており、これを外国に持ち出すと様々な混乱を招くことがある。そんなことは極々少数の人間が遭遇する大変希なケースであってわが国の文化をそんな程度のことで否定するのは笑止千万である、なんという判断を下すことがとても格好良く、お好きな『凛』とした姿形なのである、なんてことをドイツかなんかに住んでいるおばさんに言われそうな気もする(わぁヘタックソな表現なり)。