- 作者: 保阪正康
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/04/19
- メディア: 新書
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神川が日本国憲法はマッカーサー憲法と称すべきものとし、最後に「われわれの日本は、何としても日本人の日本でなければならない、こう私は確信するものであります。これが私の意見であります」と締めた。しかしながら、委員長に英語を多用すると速記が困るから「英語を御使用の場合は、なるたけごゆっくり御発言を願い、それの訳をおつけ下さるよう、特にお願い申し上げます」と言わしめている。なるほど、議事録を見るとめったやたらと英語の羅列である。
中村哲は政治問題化している憲法改正議論の中で政治家が「マッカーサー憲法」という表現を使うのは別にしても、神川に対し「先生のような国際政治の専門家が簡単にこう言われることについては、ちょっと疑問を持たざるを得ない」と最初から直球だ。彼は日本国憲法はその下敷きはあくまでも明治憲法であって、それをいうならば「国会が作った憲法」だといっている。「基本的人権というのは、法律をもっても制限し得ないというところに、思想の自由や言論の自由の問題がある」というところなどは中村の面目躍如である。
「美濃部達吉先生は、(明治)憲法の改正はする必要はない、憲法が悪いのではなくて、独裁政治や軍部が悪かったのだから、改正する必要はないと申されましたが、私は、これに反対」だったというところは非常に興味深い。
まず国会としまして、作られた憲法が果して守られているかどうか、こういうことを検討するのが当然だと思いますけれども、その作られた憲法が、いろいろな形で事実守られていない点があるわけです。その守られていないことについて、なぜそういうことになっているのか、そういう憲法違反の行為に対してどうするか、こういうふうな検討を、国会としまして今まで十二分にやってこられ、また内閣がその違憲の事実に対して、九十九条のいうように、憲法擁護の義務から、特に憲法を守っていく、こういうことを十二分にしてきたならいいですが、その逆に、憲法に違反する事実が出てきた場合に、その方に加担して憲法の条文を再検討する、こういうことは、本来九十九条でいう憲法擁護の義務を持っている政府や国会の方々としては、どうもその責任を果しているように私どもには思えない。
この発言なぞはそのまま今この2007年の議論にもってきてもそのまま通用するものだ。
最近アメリカの極東政策に基いて再軍備が要求される、それに基いて憲法の改正をして、戦争放棄の規定を変えてしまう、そういうことではなくて、そういうふうな外からのいろいろな要請や圧迫がありましても、きぜんとしてこの平和の憲法を守り抜くということが、新しい国民的立場であると私は考える。
この毅然たる態度はどうだ。
戒能通孝は開口一番「現在の憲法がマッカーサー憲法かどうかという議論につきましては、私は今論じないつもりでおります。ただし先ほど神川先生のおっしゃったような理屈がもし通るといたしますと、日本の天皇は、自分の身の安全をはかるために、日本の国をアメリカに売ったんだという結論になってくるようでございます」と松坂の156km/hくらいの豪速球を真ん中にずばっと投げた。今よりなんぼかこの辺の発言は刺激的である。
今ここで戒能が語った「憲法の改正は、御承知の通り内閣の提案すべき事項ではございません。内閣は憲法の忠実な執行者であり、また憲法のもとにおいて法規をまじめに実行するところの行政機関であります」という言葉に対してどう思うかとぼっちゃまにお伺いしたら、どの様なコメントを戴けるのかを聞いてみたい。「そんなことは従前からですね、十分理解させてですね、戴いておるわけです」とでもいうのか。あるいは「ご意見はご意見としてお伺いしておく、わけ、でございます」程度かな?
これに続けて戒能は「内閣総理大臣以下の各国務大臣は、いずれも憲法自身によって任命された行政官でありますから、従って憲法を擁護すべきところの法律上の義務が、憲法自身によって課せられているのでございます。こうした憲法擁護の義務を負っているものが憲法を非難する、あるいは批判するということは、論理から申しましてもむしろ矛盾であると言っていいと思います」と発言している。今の坊ちゃん政権にそのままお伝えしておきたいと思うのは戒能のこの発言である。「現在の憲法が持っておる基本政策を変えるような憲法の変更ということになると、これも同じような意味におきまして、憲法の改正ではなくて、やはり変革なんだ。従って、これは内閣の所管事項からはずれるというふうに考えなければならないと思うのであります」というもので、これは戦後60年以上私たち日本という国が築きあげてきた文明の証だろうというべきではないかと思う。
ここまででこの日の公聴会は議事録のテキスト量にして1/4に過ぎず、昼の小休止に入り、午後になって質問に移る。
質問に立ったのは石橋政嗣(長崎県出身 日本社会党書記長・副委員長・委員長を歴任 総督府官吏・石橋政八郎の長男)、山崎巖(第一次池田内閣1960.07において国家公安委員会委員長兼自治大臣)、片島港(社会党 宮崎一区)、眞崎勝次(佐賀県出身 元海軍少将 兄は陸軍大将・皇道派のあの真崎甚三郎)、辻政信(いわずと知れた元大本営参謀 1961年失踪 娘は堀内光雄の妻)、飛鳥田一雄(社会党 横浜市出身 1953年衆議院議員 1963年横浜市長 1977年社会党委員長 1983年政界引退後弁護士に)、大坪保雄(元特高警保局図書課長 第33代長野県知事1944年8月1日〜1945年10月27日 第一次池田内閣1960.07文部相政務次官)、茜ケ久保重光(宮崎県出身1905.08.31-1993.03.05 日本社会党)と続くが最初の三人で多くの時間を食い潰し、最後の茜ケ久保重光の質問時には既に神川は退出してしまっており、茜ケ久保重光は時間もなく、ボロボロ。午後5時47分に閉会している。それにしても社会党のこのピカピカぶりはどうだ。
この議論を保阪がどの様に解説しているのか、そして現時点でやはり思い返してみるべき議論として取り上げた意図を読むことはとても興味深いものがある。
*1:外交史料館報 第2号(平成元年3月)に「『日本外交文書』の育ての親神川彦松先生を偲ぶ」という一文を元國學院大学法学部長:小林龍夫が寄せている。
*2:(1912年2月4日 - 2003年8月10日)戦前に台北帝大にて10年間憲法の教鞭を執る。元法政大学総長、元参議院議員。法政大学総長時代、警官隊の学内導入をほのめかした秦野章警視総監と対立しながらも大衆団交を繰り返し、終に警官隊を導入することなく事態を乗り切った(ウィッキペディアより)。
*3:あの石原某がぶち壊してしまって今は「首都大東京」という変な名前になっちまった。通称「くびだい」
*4:(1908〜1975)長野県生まれ。小繋事件に際しては、大学教授の職をなげうって現地で住民とともに生活し、弁護を勤めたことで有名(「日本の法学者」より。)