ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

強制連行最高裁判決

 27日に最高裁第二小法廷が言い渡した判決理由がその他の慰安婦訴訟やら他の4件についても上告をしりぞける判断となった。中国人女性の慰安婦損害賠償、北海道の炭鉱で強制連行されて働かされ、逃げ出してのち13年間北海道逃亡生活していた人の損害賠償、福岡の三井炭鉱で働かされていた人が国と三井炭鉱への損害賠償の、3ケース、4件である。これで中国人だけでなくて、あらゆる戦争中に強制連行されて働かされた各国の人々の日本に対する損害賠償はこれから先この判断に従って退けられることになる。
 この一連の報道に際して初めて判決文を読んでみたいと思ったのだけれど、どうやら全文は新聞等では報じられないのだろうか。見つけられない。見つかったのは、毎日新聞等に掲載された「判決要旨」というものである。朝日でも毎日でも27日の夕刊に掲載されており、夕刊の〆切時間からいったらこの短時間で良くそこまで要旨をまとめることができるものだと、さすが新聞記者は凄いものだと感心した。しかし、どうも両紙の文章はほぼ同じで(元は同一なんだから当たり前といえば当たり前か・・)、ひょっとするとこの判決要旨、なるものもまとめたのは最高裁なんだろうか。
 結局、国に対しては損害賠償請求は出来ないんだけれど、この強制連行労働についてはこれを労働力として使った企業にとっては終わっていないということになる。最後の部分は朝日新聞(2007.04.27夕刊)によるとこうである。

本訴請求も同声明5項による請求権放棄の対象となるといわざるを得ず、原告らの請求は理由がない。なお、本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかったこと、西松建設は中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受けていることの事情にかんがみると、西松建設を含む関係者が被害救済に向けて努力することが期待される。

つまり、最高裁第二小法廷の中川了滋裁判長は「西松建設さん、期待しているからね」といっているわけだ。西松建設が期待に応えないであろうことも予想できるわけだけれども。つまり国は知らないけれど、それでもっておいしい眼を見た人はその分どうにかしてね、と言っているということだ。
 当時捕虜となった連合国軍兵士、あるいは軍属、民間人も全部を掴めないほどの人数が実際には労働に従事させられたことは広く知られている。中には刑務所の囚人を働かしたところもあったなぁ。勤労奉仕という名のあの労働は「奉仕」だから当然強制じゃない訳か。国の緊急時だったのだからなぁ。あ、こうしたところに使われていた言葉だから「奉仕」という言葉を聞くと今でも何となくなんか違和感があるのかぁ。そうしてむやみに無理矢理に働かされた人たちは枚挙にいとまがない。そのうちにはすでに亡くなった人はいくらでもいる。主に人里離れた鉱業系の企業の現場で、そして各種企業の製造現場でも。戦後そうした人々がそのまま残存して作られ、その後に至っているコミュニティーを今でも見ることが可能だ。なんで自由なんだから故郷に帰らないんだ、なんてことを云う人もいる。人間は何年か暮らしたところからそう簡単に暮らしの拠点を動かすことできない。貧しければ貧しいほどこれは困難だ。私が昔働いていた企業の現場にもそうした捕虜の人々が働かされていたという話も聞いたことがある。現にカナダ人の方が、その当時にお世話になった日本人の作業長にお礼を言いたくてやってきたという人が来たことがある。その本人は見つからなかったという話を聞いたけれど、ひょっとしたら見つからないことにしたのではないかという推測だって成り立つ。私がその時に担当だったら、ここでその人を見つけちゃったら捕虜の強制労働で成り立っていたということを認めることになっちゃうから止めようといったかもしれない。
 こうした話も日本の国内にいると支援を得ることのできる人たちが裁判を起こすことによって知る程度だけれど、当時の捕虜の方たちが戦後になって解放されて帰国した先の国にこっちが出かけていると、時と場合によってはそんな人に出会うことがある。ひとりの日本人の若手独身駐在員が借りていたタウンハウスにある日隣に住んでいると思われるおばあさんが訊ねてきて「I put a spell on you !」と言い放っていったというのである。彼は単純に「なんのいわれもないのに突然こんなことを云うなんてあの人おかしいんじゃないですかね」といってそのうちに引っ越した。ひょっとすると彼女は夫をそうした経緯でなくしたのかも知れないし、ひょっとするとご本人がそんなめにあったのかも知れない。もちろん、そうじゃないかも知れないけれどね。
 私が引っ越した先の隣の家に挨拶に行くと、老夫婦のリビング・ルームには老夫の若きころの兵装の写真がフレームに入っておいてあった。私の目線がそこに行くと、彼はパプア・ニューギニアにいたという。そのすぐあとに「But we are now friends !」といって手を出した。彼がパプア・ニューギニアでどのような眼にあったのかについてはそこからは何も聞く気にならなかった。老妻はとても頭の良い人だったから、いつも屈託なくしてくれていた。
 事務所からランチを取りに行こうと歩きだすと、向こうから来た杖をついた老人が私を呼び止め、日本人かと確認して「失礼だが、何年の生まれだね?」と聞く。戦後の生まれであると告げると彼は「そうか、いろいろあったが今や友達だ」と手を出した。戦争記念日のパレードには街中へ出かけるなとついこの前までいわれた。そうしたパレードに出かける退役軍人の老人たちは胸に勲章を着け、電車の中にいた。向かいの席に私が座ると明らかに不愉快そうであった。私の国籍がどこなのか、彼らには判別できないだろうに。ひょっとすると私の思いこみかも知れないにしても。
 これらの出来事からもう既に10年が過ぎた。あの中の何人が生き残っているのだろうか。私はそうした人々に出会うたびに話をしてきた。多分あの人たちはそれによって過去を思い出しただけでもしばらく立ち直れなかったりするだろう。それは私が戦争になんの関係もない状況下で受けた心の傷を思い出すとしばらく立ち直れないのと同じだ。あれは広い意味では責任があるけれど、狭い意味でいったら悪いのは私じゃないんだ、といっていつまでものらりくらりしてあの時のことを真っ正面から見据えることをしないでいるというのは向こうから見たらやっぱりわかってしまうし、恨みは晴れない。ずっとこうしていくのかも知れない。そのうちに当時の当事者たちは双方ともに鬼籍に入り、歴史も語られることがなくなってあいまいなままになっていくのだろう。いやな眼を見た方はそれをずっと語りついでいくだろう。しかし、片一方はそれを風化させていくだろう。そう願っているのだから。