ほぼ足りてまだ欲 その先

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ラジオ深夜便「光さす故郷(ふるさと)へ」 旧満州引揚者“語り部”…竹中よし

終戦後一人娘を連れて帰国。娘は当時一歳。この帰国の路については長い間誰にも話さず。80歳を超えて話そうと思い立つ。

 ソ連が来てそれまでいたところを離れるまでは大きな家の一室を借りていた。その部屋の隣がお勝手で、ご馳走を作ってくれるので豪勢で楽しい生活をした。その家の旦那さんは満州国軍でした。五族協和、王道楽土と聞いてきた。日本人は裕福だし、良い国にしようと云われてきた。
 それなのに突然に大変だ早く逃げろという。どうして良いかわからない。早く、早くって云うけれど。「みんな走って駅に行っている、早く行かないと列車に乗り遅れる」というけれど何を持っていって良いかさっぱりわからない。とにかく子どもを背負って、袋の中に詰めるだけ詰めた。水筒だ、パンだとくくりつけてくれた。
逃げても大変だからうちの子どもになったらどうだと云われた。その時は娘が一歳ちょっと。どうしても日本に帰りたかった。引き出しを開けたらピストルがあった。せっぱ詰まった時はこれを持っていけば死ねると書いてあったけれど、絶対この子を連れて逃げようと思った。
 貨物列車に乗って、奉天に向かった。みんな殺気だって、我先にと飛び乗った。私は子どもを連れているから乗せてくれと行っても誰も耳を貸さない。それでもようやく乗れた。雨に打たれ、4日間汽車の中にいて、奉天過ぎてアントンまできたらガッシャンと列車は止まり、ここから先に朝鮮には行かないから下りろと言う。
 娘が引きつけのようになったりした。それでもどうしようもない。みんなぞろぞろ歩く。あんたの娘が先を歩いていて、あそこに満鉄の病院があるからといわれたので病院に行って、薬を貰って娘は元気になった。
 そこで、終戦を迎えた。明日は天皇様のお話があるから集まってくださいといわれ大広間に集まった。何を言っているかわからないですよ。今何云っているのと聞いても「しらねぇ」といったりしていたが、そのうち誰かが大きな声で「日本が負けたってことだ!」と云ったのでビックリしました。奈落の底に突き落とされたという感じだった。身体が締め付けられる様だった。これでもう外国になってしまったから、誰も助けてはくれない、自分で守らなきゃならないと思って大変だった。
 行くところのない人は日満ホテルの地下室に入れられちゃったんです。それでもバケツに勺がついていて、お粥のようなポーギーと云うトウモロコシを溶かしたものを貰って呑んでました。食べなきゃおっぱい出ませんしね。そこでお産をした人だっていたんです。本当に惨めでした。
 街にはソ連兵が一杯いました。女の人を触っていくので、女の人は外に出ないようにしていました。私はもんぺに黒い顔に頬っかむりをしながらポンポン菓子を売っていた。いつも娘と「うちに帰ろうねぇ」と話していた。
 「○○(聞き取れず)」までは八路軍だけれど、そこを越したら重慶政府がいるから日本へ帰してくれるという噂が出て、1946年の7月頃だったかにそれじゃ、行こうじゃないかと30人ほどで出かけた。歩いて「○○」に行くには一日7里歩けば一週間で着くというので、一生懸命歩いた。みんなくたくたで。段々疲れて、休憩になったらばたんと倒れて。良く歩いたと思う。娘は背中で「ヨイショヨイショ」と声をかけてくれた。そうこうしているうちに誰かが「子連れの奥さんがいないねぇ」といった。捜したら奥さんが倒れていて、子どもが傍に座っている。男の人たちが砂を被せるだけ。土も掘れないし。葉っぱを集めて。さぁ、帰ろうよと子どもに声をかけても傍にずっと座っている。5歳くらいの子どもだったかも知れない。どんなことを云ってもかぁちゃんがここにいるで、いやだと。だっこして連れていく力は誰もない。誰かが「さようならぁ〜」と云ったら、みんなが「さようならぁ〜」という。引っぱってくることもできないからそのまま歩いていくしかない。誰かにひろわればいいなぁと思ってねぇ。
 細い川なのに急な流れのところが来て、私は下駄を脱いで身体にくくりつけ、渡れた。ところが二人の子どものうちのひとりを連れて行かれないから、ひとりを流してしまったお母さんがいた。持て余していたじゃないかねぇ。
 とうとう辿りついた時は嬉しかったです。やっとここまで来てもう歩かなくて良いと思った。列車が動くのが見えて、もうすぐうちに帰れると思った。ところが奉天コレラ患者が出ちゃって、もうダメでした。全員がコレラ患者にされちゃって、これは辛かったです。鉄西というところで、なんでも良いから横になりなさいと入れられた。私は葦のような草を刈ってきて、娘をその上に置くと気持ちよく寝てくれた。娘はずっとうとうと寝ていました。眼を開けると「おうち帰ろうね」というのです。「ウン、帰るよ!」と答えていました。おっぱいは出ないし、目は霞むし、ここでまいっちゃうのかなぁって。
コレラ患者が出ないのがわかったから列車に乗って、「○○」に行きました。
 そうしたら日本の旗を掲げた船が待っていてくれてみんな歓声をあげました。私たちは捨てられたんじゃなかったんだなぁと思いました。小さい日の丸の旗がちょっと立ててあって嬉しかったです。貨物船。船に乗った時は茶畑、富士山、波の音を思いました。この海が静波(静岡県の地名)の海岸につながっているんだなぁと思いました。元気な人は騒いでいたですが、私たちは羨ましそうにそれを眺めていました。唄えばお煎餅なんかを貰えたりしたんですが、もう唄える元気もないのです。娘が喜んだろうにねぇ。船の中でも同じものを食べていました。娘は元気がなかったのです。揺すると目を覚ましていました。早く元気になるんだよぉといってましたが、おっぱいを吸う元気もなくて、やっと息をしているような状態で、受け答えがなくなっていった。それが寂しかった。「かあちゃん」といっていたのにそれも云わなくなって、もう眠るだけ。そして、コックンといったら終わりでした。声を上げて泣きたかった。船が進行中だから、死んだ人は汽笛が鳴って、海に落とすのです。娘は死んでないものねぇ、なんて私は云ってました。亡くなった方はいませんかぁ、と廻ってくるんです。死んでいませんよと云いました。「この子は?」なんていわれてたりしても。折角ここまで連れてきたのにと思ったけれど、揺すっても何をしても動かなかった。悲しそうの顔をしていると死んでるんだろうと云われてしまうから、死んでませんよと云っていました。何回も娘にごめんねと謝っていました。置いてくれば死ななかっただろうにと。でも置いてはこられなかった。ごめんねと謝っていました。今でもお墓に謝っています、何にもしてやれなかったねぇって。でも生きていればもう60幾つなのに、私の前に出てくる時は子どもです。
 誰かが「山が見えたぞぉ〜」といった時は嬉しかったけれど、博多について「この子死んでいるんです」と云ったら、簡単に「あぁそうですか、この箱に入れてください、焼き場に連れて行きます」ととっても事務的に云われた。そうしたら何人もそうして死んだ子どもを抱えて降りてくる人がいて、それぞれの子どもの顔を見せ、焼かれている時にみんなでわんわん泣いたんです。しかし、その後誰の住所も名前も聞いていない。私はそのまま東海道線に行く方向へ行った。
 汽車から広島を見たですよ、焼け野原で何もないしょ、その時は驚きましたねぇ。何もかも驚きでした。富士山が見えたですよ。その時内地にやっと着いたと思いましたねぇ。みんなに会えると思って。うちの人が何と思ってくれるかと思って。待っててくれるかなぁと。両親も兄弟も元気でした。お骨だけはお葬式はしてくれた。飾っておいた。何かわからなくなってたんです。誰にも話す勇気がなかった。悔しいというのもあるんですよ。なんで私がこんな目に会ったんだろうって。王道楽土だなんていって。それが悔しかったんです。誰も助けに来てはくれない。関東軍はいないし。それが悔しくて、誰に八つ当たりをしてやろうかと思って。でもそれをいえるのは両親だけだれども一度だけそれをいったら父は悲しそうな顔をしたんです。それからはもういえませんでした。
 戦争をしてはいけませんねぇ。私は生きて帰ってきたから良いけれど、何人も死んでしまったんだからねぇ。学校でも現代的な歴史を教えても良いと思う。満州なんてどこにあったんだなんて云う中学生もいるんです。世が世ならば娘も一緒に暮らせていたのにねぇ。話し合いってことができないのかねぇ。時間がかかっても良いから話し合いで、戦争だけはやりたくないと考えちゃいますね。戦争はしてはいけないということを必死に云わなきゃいけないねぇ。漫画なんかで見ているけれど、戦争は殺し合いですよ。今の戦争はもっとひどいでしょ。長くかかっても良いから話し合い。日本人は気が短い。子どもを見ても、これから大きくなるうちに戦争をやるようになったらどうしようと思う。戦争はいけないですよ。

竹中さんは帰国後、美容師として生計を立て、夫の帰りを待ったけれど、その後夫がシベリア抑留のあと死亡したことを知らされた。竹中さんの話をもとに牧ノ原の劇団が朗読劇を演じた。