ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

散歩

 【写真左:「夜景モード」という設定で撮ってみるとこんな具合に撮れるのだ。写真右:通りかかる人が何人もカメラを向けているので、何事かとそっちを見ると銀座の松屋がこんなことになっている。なんだか物欲しそうでブランドもののためだったらサラ金から追いかけられても買う、という一種の依存症になっている人がデザインしたのかと思うほどだ。なんとも安っぽいことになってしまったものだ。まぁ、松屋も苦しいんだろうなぁ。】
散歩ついでに本屋に行く。
1) 雑誌「論座12月号」なんだか今月号の目次を見ると八方ふさがりの今の現状をあぶり出しているかの如く成り。また、疲れそうなテーマに活字で取り組まなきゃならんのかなぁという雰囲気になる。いつもだったら、おっ!どんな論争になるって云うんだ、と血が騒ぐんだけれどね。
2) 「絵本・落語風土記江國滋 河出文庫 2007.09:どうやら1970年に青蛙房から出版されたものの中からいくつかを割愛したもので、江國の没後10年ということで文庫化したらしい。お友達が「志ん生の右手」という同じ河出文庫から出ている矢野誠一の本をmixiの日記で語っておられたので、その短いエッセーを立ち読み(すんまへん)した時に隣に置いてあったものである。ぱっと開けたところが「吾妻橋」のところで、「昔から落語で身投げだてぇことになると出てくるのは吾妻橋ということになっている。東京都は20年経ったらキレイになりますと云うが、こんな汚ねぇ川が昭和60年にそんなことになっているとは思えない」と書いてあって興味を引いたのである。確かに昔の隅田川は水がとにかく黒くて、夏になると川に面した窓を開けると臭ったのは事実だ。しかし、それも今やそんなことは全くない。当時の東京といえば東京オリンピックの頃だから都知事東龍太郎だ。あれからもう40年が経過した。この本のあちこちにちりばめてある挿絵は全部著者の手によるものだという。恐れ入りました。
3)「枢密院議長の日記」佐野眞一著 講談社現代新書 2007.10:私が知る限りではもっとも分厚い新書ではないだろうか。集英社新書ノーム・チョムスキーの「覇権か、生存か」(2004.09)の350頁、同じ講談社現代新書鬼界彰夫の「ウィトゲンシュタインはこう考えた」(2003.07)の418頁を超えて430頁である*1。1946年に数えにして96歳で没した倉富勇三郎の膨大なる日記がその材料である。佐野の説明によれば倉富は甚だしき日においては一日に四百字詰め原稿用紙に換算して50枚にも及ぶ日記を認めたというのである。巻頭の自筆原稿を見ると甚だ書き慣れた文字が流麗に流れている(実は広津和郎みすず書房創業者の小尾俊人がそれぞれチャレンジしたがあまりの難字に頓挫したのだという)。司法省畑から宮内庁にあがった男爵だそうだ。「膨大な日記」と聞き思わず手にする。

*1:なんと「言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」佐藤卓己著(中公新書 2004)は437頁であることを発見